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コミュニケーションと心理の問題

コミュニケーションの前提とは

人と人とが上手く意思疎通できないとき、問題はどこにあるのだろうか。

コミュニケーションというのは、それが成立する前提に共通言語を必要とする
単純に人の話を聞くことや、相づちを打つなどのスキルでコミュニケーションは成り立たない。
たとえば文字通り日本語、英語など言語が共通でないと、コミュニケーションを交わすことは途端に難しくなる。

これと同じように、興味の度合いや、知識量の前提に差があるというだけでもコミュニケーションはうまく成り立たない。
英会話に強い興味があるOLの輪の中に、1人だけ英語が大嫌いな人が加わるときや、専門技術のプレゼンテーションに営業マンが1人加わるとき、彼らが上手くコミュニケーションを交わすことができないだろうと想像することができる。

このため、人と人が言葉を使って意思疎通を図るときにはまず、お互いが歩み寄ることのできる共通言語を探すことが必要になる。
たとえば話題を英会話から他のものに変えたり、営業マンがプレゼンテーションに参加するまでに基礎知識を身につけるという働きかけを行うことである。

人間関係から気がつくこと

ここでロンドン事件を振り返ってみると、婦人とスタッフの間に意思疎通が成立していないことがわかる。

多くの人は接客者のコミュニケーション力を責めるかもしれないが、実はそれ以前に、共通言語の刷り合わせに問題を見つけることができる。
イギリス人スタッフは、サービスを滞りなく提供することや約束を守ることを共通言語にしようと試みている。
これは接客者の役割としての「サービスとお客を結びつける」という考え方にも一致していて、誤った方法ではない。

片や婦人は、自分の感情を共通言語にしようとしている。
本人にその意思があるかどうかは別として、サービスではなく「私の気持ち」を中心に話をしている。

私たちも少し考えてみればわかることなのだが、誰かの気持ちを中心にして一方的に話を進めることはなかなか難しい。
相手の気分しだいで答えが変わってしまうからだ。
そもそも、誰か個人の気持ちを中心にするという前提は、相手に歩み寄ることを要求するということで、双方向のコミュニケーションが成立しない。

つまり、接客者がいくらコミュニケーション力を高めたとしても、この手の問題は必ず引き起こされるということなのだ。
問題の本質がおわかりいただけるだろうか。

しかし私は何も、だから婦人が悪いとか、スタッフは悪くないと言っているのではない。
婦人のことを人格的に問題がある人だと言うつもりはない。
実際に婦人の人間性に問題があるわけではない。
問題が発生した根本的なポイントが共通言語の刷り併せミスにあり、そのミスの原因が婦人の基準にあるという事実を確認しておきたいのだ。
そしてこのようなことが起こってしまうのは、自分自身の感情を共通言語にする、人間関係の甘えに原因があるということなのである。

ロンドン事件のスタッフは間違っていたのか?

まずロンドン事件では、デパートとして洋服の仕立てを提供すること、期日を守ることという『サービス』は実際のところ不備があったわけではない。
サービス提供者が提供すると決めて、それを約束どおりお客に提供するサービスを基本サービスというが、その基本サービスに不備はなかった。

では接客はどうか。
イギリス人スタッフは、このデパートのサービスがどのようなものであるかを婦人に伝えた。
扱うサービスが何であるか、どのような約束をしているのかということを伝えることは、サービス提供者として行うべき行為であって間違いではない。
接客者がサービスとお客を結びつける上で必要な、サービス側の責任を果たしたということになる。

それではサービスとお客を結びつける上で必要な、お客側の要望には応えたのだろうか?
これが実は応えているのだ。
このスタッフは、夫人が洋服に対して出した仕立ての希望と日時の合意に関して、婦人の希望に応える約束をし、そして実際にその約束を果たした。
サービスとお客を結びつけるという仕事を、これまでになく正確に行ったのだ。
イギリス人スタッフは、接客者としての役割を見事に果たしたといえる。

社会的証明の心理

サービスを受ける人の大半は、普段は普通にいい人であり、友達や家族がいるごく一般的な人である。
その一般的で良心的な人たちが、どういうわけか「お客」となった瞬間に普段行わないようなことを行ってしまう。
それもよく行ってしまう。

たとえば、露骨にイヤな顔をする。
相手の話を聞かずにキレる。
すぐに文句を言う。
思い通りにならないとダダをこねるなど、最近の自分の行為を振り返って思い当たるところのある人もいるのではないだろうか。

2、3歩引いて考えてみるとよくわかるのだが、「私の思い通りになるように、お前が尽くせ」という態度を快く思ってくれる人はいない。
たとえ笑顔で接客をしてくれたとしても、心の中も笑顔だと考えるのは少し無理がある。
冷静に考えれば私たちは誰でもこのことを知っているのに、いざサービスを受けるときになると「お客の甘え」が出てしまう。
相手がなんとかするものだと考えてしまう。
ときには尊大な態度を取ってしまう。
このような振る舞いには、社会心理学でいう社会的証明の心理が働いている。

私たちの頭の中には「お客様は神様」であるとか、会社勤めをしていて顧客に頭を下げるような「常識」が日常化している。
お客はお金を払う立場で有利な状態にあり、お客のニーズは貴重なのだという頭がある。
そして、このような概念は社会的にある程度常識として浸透していて、正しいとは言わないまでも間違った考え方ではないという共通認識がある。

この社会的な証明によって、私たちはお客というものをイメージし、実際にお客になるとき、このイメージにぴったりのお客像でサービスを受けようとする。
言い方を換えれば「他の人もみんなやっているのだから正しいのだろう」という心理の状態になる。
この心理がお客という甘えを私たちの心の中に芽生えさせる。

自分で選んだという自覚の欠如

社会的証明を武器に、お客の甘えを持ったままサービス利用すると、サービスを判断するときに相対的な価値を基準とするようになる。
相対的というのは何か他のものと比較することで、たとえば他のサービスと比べてとか、既にサービスを利用している友人や接客者の説明によって比較検討することである。
価値というのはサービスそのものがどのくらい人びとに支持されているのか、ブランド力はあるのか、素晴らしいかどうかということである。

つまり相対的な価値というのは、情報を集めて素晴らしさを検証し、素晴らしければサービスを受けるという決め方のことなのだ。
たとえば、同僚がみんな英会話を始めたので英会話スクールに通おうとし、評判や印象で決めてしまうなどのときのことである。
相対的な価値によってサービス利用した場合、「良いとされているもの」「良いはずのもの」を利用するため、自分でそのサービスを選んだという自覚が欠如しやすい。
そのため億劫になるとすぐに止めたり、問題が発生すると容易に責任転嫁したりするということが起こりやすい。

私たちの脳は、ある一定量以上の大量の情報が入ると、重要だと考えられるピンポイントの情報だけを拾って素早く物事を判断しようとする。
全ての情報を確かめる時間も能力もないからだ。
こうして、社会的に正しいとされていることに従おうとする。

これは情報の溢れる現代社会で人間が生きていくための知恵であり、決して悪いことではない。
この脳の働きがサービス利用にも使われたとき、人は「相対的な価値」による判断を行う。
「相対的な価値」は社会的に証明されているので安心して信じることができる。

この信じ込みはしかし、自分で選んだという自覚を欠如させる。
そしてこの自覚の欠如こそが「お客としての甘え」を生み出す。

こうして、本当は自分では何も選んでもいないのに、いざ問題が発生するとそれを自分の責任だとは考えない心の状態が生み出される。
そしてもっと大切なことは、自分の行為に責任を持たずに選択するので、問題はいつか必ず発生するということなのだ。
このようにサービスを選んでしまうと、お客として素晴らしいサービスを経験することは実際のところ限りなく難しくなる。

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