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マザーテレサと森のくまさん

マザーテレサはインドでその生涯を閉じるまで、献身的に貧しい人々のために尽くした。
彼女が慈愛に満ちていたことは、彼女のことを深く知らない人でも理解しているのではないかと思う。

そのマザーテレサのように献身的に相手に尽くす接客者がいる。
ここで大切なのは、献身的にサービスを提供するのではなく、相手の喜びや顧客満足のために尽くすということである。
ボランティア精神やホスピタリティに溢れた接客者に多く見られる。

彼らの行為の目的は「自分ができる精一杯を行う」ことにある。
サービス提供を目的とするよりも、自分が信じる顧客満足を行う。
または、自分がこうあるべきだと信じるサービスを提供してしまう。

それは人の気持ちを満足させる接客であるのかもしれないが、実際のサービス提供に不統一感が生まれてしまう原因になる。
サービスを提供する接客者が、サービスとして統一されていることを守るのではなく、自分の考え中心(たとえば顧客満足中心)でサービスを扱うからだ。

接客者全員がこのようなタイプなら、提供されるサービスに統一性がなくなる。
バラバラなものを提供されるサービスは信用されなくなってしまう。
接客者の中で1人か2人がこのタイプなら、お客から見てその接客者の提供するサービスは良く、他の接客者の提供するサービスは悪い、という見え方になってしまう。
そうなると、的確にサービスを提供している接客者は何も悪くないのに、不適切だと評価されるようになり、正確に提供されているはずのサービスはいつの間にか「悪いサービス」だとされてしまう。

こうなってしまったサービスを利用するお客にとっては、「接客者によって基準が変わるもの」がサービスとなり、良い接客者に当たればラッキー、悪い接客者(実は正確にサービスを提供する接客者)に当たればアンラッキーということになる。
もしくは、良い人に当たるまでクレームを出し続けなければならない、という状態が作り出される。

本来は生まれるはずのない不満・クレームが増えると、その対応に割かれる時間や労力によってサービス提供に支障が出る。
こうして悪循環が生じ、サービスはますます正確に提供されなくなってしまう。
最終的に利用者は安心してサービスを利用することができなくなり、サービスへの信用が崩れてしまう。

良い接客、マザーテレサのような慈愛で、一生懸命自分ができることを行うことによって、皮肉にもサービスは破綻してしまう。
このことは、サービス提供を基準とせず、相手に対して良かれと思う自己中心的な気持ちでサービスを扱うことに全ての原因がある。
ところが、相手に精一杯尽くすことを批判する人はいないので、このような接客は「良い接客」として放置されてしまう

旅館の決まりごとによっては、美談は醜聞になる

リッツ・カールトンのようなルールがあることは、サービス提供上かなり重要なことで、たとえば何か問題が発生したときに、スタッフ同士が助け合うしくみがなければ現場はただ混乱してしまう。
悪くすると対立を生んでしまうことにもなりかねない。

もし京都の旅館に、他の者が助け合ってカバーし、1人の接客者が困っているお客に手を差し伸べることができるような協力体制があるのであれば(たとえマニュアル化されていなくても)、女中の話は美談に間違いない。

しかし女中が「私は旅館のルールなど良く知らないが、これを一大事だと思うし、良心に従って財布を届けるべきだ」と思い込んで京都駅に向かったのだとすれば、それを美談だと考えることはできるだろうか。
あるいは、サービスはこうでなくてはならないと言えるだろうか。
そうは言えないのだ。

顧客満足とサービス提供は、対立することがある
顧客満足を行うとサービスが提供されないことがある。
もちろん、一番良いのは両方がうまく満たされることであり、サービスはそのように作られるべきなのだが、状況がそれを許さないことがある。
この女中のケースが実は、(財布を忘れたお客の)顧客満足と、(旅館でサービスを受けるお客への)サービス提供の対立を表している。

両者が対立したとき、接客者はまず何を優先するべきなのか。
顧客満足は良いことを行う気持ちから行動し、サービス提供は必ず提供するというポリシーから行動する。
サービスにおいては、良いことを行いたいという「感情」よりも、確実にサービスを提供するという「事実」を優先する。
そうでなければ、もっとも基本的なお客への信頼を維持することができない。

サービスにとって良いこととは必ず提供することなのだ。
したがって、サービスにおいては良心ではなく事実を優先しなくてはならない。
つまり、旅館でのサービス提供がないがしろになったのだとすれば、女中の行為は美談ではなく醜聞であるということになる。

森のくまさんの接客

「ある日 森の中・・・」でおなじみの「森のくまさん」という童謡がある。
森で熊に出会った少女は、熊から「お逃げなさい」と言われて逃げる。
良く考えてみると森で熊に出会うというのは相当危険だ。
熊が逃げろというのもおかしな話だが、理には適っている。
少女は逃げた。

ところが途中で熊は「お待ちなさい」といって少女を引きとめ「落し物を拾ってあげましたよ」とアピールする。
実はこの熊は優しい熊だったのだというオチだ。
そして少女はお礼をすることでこの歌はハッピーエンドで締めくくられる。

顧客満足のために森のくまさんと同じことを行う接客者がいる。
こんなことを言ってしまっては、童謡が成り立たなくなってしまうが、森の熊が優しい心の持ち主なら、最初から少女を怯えさせずに優しくすれば良かったのではないだろうか。
接客者の中には、お客に喜んでもらうために接客の最初にサービスを低く見積もって伝える者がいる。
サービス事業全体でそのような方法を行うところもある。
特に接客者が販売員を兼ねる店舗でよく行われる。

人は多くの場合、期待していることよりも少し上のものを提供されたときに喜びや満足を感じる。
これはサービスに限ったことではなく、友人の誕生日を祝う場合や結婚記念日をアレンジする場合などにも同じことがいえる。
接客の中には、利用者の満足度を上げるためにサービスの内容を控えめに説明し、サービスの全内容を明らかにしないことがある。
これによって最初にお客の期待値を下げておき、実際には最初から提供すると決めている(説明のない)サービスをそのまま提供する。

するとお客は、最初の説明よりも実際のサービスが良いことに満足し、喜んでくれることになる。
そして期待値以上のサービスを提供してくれた接客に高い評価を下す。

実はこれがサービスの信用を裏切る行為なのだ。
サービスは提供すると決めたものを提供する約束である。
しかしこの場合、サービス利用者であるお客は、提供すると約束された以上のことを提供されることになる。
気分は良いかもしれないが、約束は守られないことになる。

そしてそのようなサービスを支持する利用者は、今後必ず、「約束以上のものを期待し望む」ようになる。
提供すると約束した以上のサービスを望まれ、それを提供し続けなくてはならないようになると、もはや正しいサービスを提供することが困難になる。
後になって通常のサービス提供に戻すと「以前よりもサービスが悪くなった」と評価されることになる。

森のくまさんの接客は、最初に相手を落とすことで効果を上げる心理的な手法のことである。
この方法もマザーテレサの接客のように「良いこと」とされているケースが多いため、放置されたままサービスの質を落とす。

マザーテレサの接客と森のくまさんの接客に共通すること

この2つの接客は、サービスをダメにするということが明らかにされていない。
その理由は顧客満足という大義の元に正当化されていることが大きい。

この2つの接客は、サービスではなく接客者個人への信頼構築が優位にあり、同時にサービスを道具にして顧客満足を生み出している。
いずれの場合も、サービスが主体ではなく、脇役や道具に成り下がってしまっている。

このような状態が長く続いたサービスでは、その接客者が退職すればお客が去ってしまい、接客者が転職すればお客の引き抜きが起きる。
接客者個人に対する信頼によってサービスが利用されたり、されなくなったりするということは、既にサービスそのものに対する信用がないということと同じ意味がある。
接客者を信頼してサービスを利用するということはさらに、接客者が対応を誤ると「サービスが悪い」と評価されるということでもある。

京都の女中の接客は細部が伝えられていないので、実際のところは「良い」接客なのか、「良く見える」接客なのかは判別がつかない。
しかしマザーテレサの接客である可能性があるのに、「良い接客だ」と無条件に信じられているのが実情だ。

私たちはお客としてサービスを選ぶとき、このような接客者をどのように見ればいいのか、接すればいいのかを知っておくことで、サービスを上手く利用することができる。
しかしその方法を明らかにする前に、本当に「良い」接客はどのようなものであるのかを見ておくことにしよう。

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