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ロンドン事件勃発

秋口のある日、ロンドンのある日系デパートに駐在員の奥様とおぼしき婦人が、仕立てを依頼した洋服を引き取りに来た。
ただ、引き取りに来た日が仕立て日よりも1日早かった。
仕立て日を勘違いしたのではなく、おそらく近所に用事があったついでに立ち寄り、「もしできているのなら」という軽い気持ちだったのだろう。

レディースウェアのセクションでそのお客を担当したイギリス人男性ははっきりと「まだ仕立てはでき上がっておりません」と言った。
言い方が悪かったのかそれとも調べようとしなかった態度が気に障ったのか、婦人は「確認するべきだ」「余裕を持って仕上げるべきだ」と言って怒りを爆発させた。
小柄なイギリス人スタッフは慌てることなく毅然と、そして堂々と言った。
「お客様。できていないものはできておりません。明日とお約束したからには必ず明日に仕上げます」
そもそも毛先ほども申し訳ないという顔をしていない。
その様はあたかも、約束どおりプロの仕事をしていることに自信と誇りがあり、「そのことを理解せずに適当なことを言うあなたは何様だ」と言わんばかりだった。

婦人の怒りは頂点に達し、こんなときになら、私も含めてほとんどの人が言うだろうことを口にした。
「あなたじゃ話にならない。上の人に代わりなさい」
これに対してイギリス人スタッフはそれをキッパリと否定した。
「お客様の担当で責任者は私です。お客様に対して私が最も上の立場の者です。約束どおりサービスもご提供差し上げます。従いまして、他に人を呼ぶことはできませんし、その必要もありません」

日本人スタッフが間に入ることでその事態は収束した。
実は私はこの事件を目撃していた。
そして一部始終を見ていた人なら誰もが思うように「思いやりの接客ができたのではないか」「これでお客さんは離れていってしまう」と思った。
ところが、全てのことが終わると、このデパートのマネージャーはこう言った。
「サービスはこうでなくてはならないよね」

このとき何が起こったのか。
この事件を整理してみるとこうなる。

まず婦人はたまたま近くに用事があったので、明日仕上がる予定の服ができているかどうかを確認しに来た。
しかしまだ服は仕上がっていなかった。
スタッフは服が仕上がっていないことを伝えた。
約束の日は明日で、明日仕上がることも伝えた。
この2つの事実には、何の問題も見当たらない。

ところが婦人はスタッフの態度が気に入らなかった。
これに対してスタッフはサービスの事実を伝えた。
品物は翌日にでき上がることと、責任者が自分であることを伝えた。
実はここまでの事実でもサービス上の問題は起こっていない。

この一連の流れで起こったことはただひとつ、婦人の気持ちの変化だけなのだ。
だからマネージャーは『サービスは』こうでなくてはならないと言ったのである。『接客は』こうでなくてはならないと言ったわけではなかった。

サービスと接客は違う?

サービスは実は、サービス提供者が一方的に決めるものなのであるといえば、軽い驚きを覚えるだろうか?
一般的にサービスはお客のためにあり、お客を喜ばせるものであると考えられている。
この考え方は間違っていない。

しかし、何をどのように使うことでお客を喜ばせるのかということはサービス提供者が決めるのであって、お客が決めるわけではない。
お客を喜ばせるために何でも行うべきだというのは、お客側の拡大解釈であり、サービスに対する大きな誤解なのだ。

たとえば私たちがスターバックスに行くとき、そこはコーヒーの専門店であることを理解して足を向ける。
スターバックスのことに詳しい人なら、コーヒーの香を維持するために全席禁煙であることを知っているだろう。
あるいは、コーヒー豆に日光を当てないような保存方法を行い、開封して空気に触れたコーヒー豆は一定期間が過ぎると廃棄処分(または寄付)になることを知っている。
それもこれも「美味しいコーヒー」を提供するスターバックスが一方的に決めたルールであって、お客の声でこのようなサービスを提供すると決まったわけではない。

もちろん優れたサービス提供者はお客の声に耳をよく傾ける。
もう一度スターバックスを例に挙げると、たとえばフラペチーノという商品は、カリフォルニアの顧客の声にある店舗の店長が耳を傾けることで生まれた。
しかしそれでも、フラペチーノというものを商品化し、提供すると決めたのはスターバックスであってお客ではない。

お客の声によく耳を傾けるとしても、サービスで何を提供するかということは、サービス提供者が一方的に決定するのだ。
これがサービスの特徴である。

そして提供すると約束したからには、その約束を守ることがサービス提供者の責任となる。
約束が守らなければ、誰もそのサービスを安心して利用することができなくなってしまうからだ。
提供するものを決め、約束を守ることによってサービスの信頼が生まれ、保たれる。

一方の接客は、お客の気分を良くするために存在していると勘違いされている。
中には会話や気配りでお客に満足を生み出す素晴らしい接客者もいるが、それはあくまで仕事のプロセスで発揮する「能力」であって、接客としての「役割」ではない。
接客の役割は、サービスとお客を結びつけることにある。

サービスを良く理解し、必要とする人に問題なく提供する。
一方でお客のニーズを明らかにしようと努め、お客にとって良いサービスを紹介する。
これが接客の調整と呼ばれる役割である。
接客はあくまでサービスとお客の中間に立ち、取り持つ役目を果たすことであって、サービスと同じ意味があるわけではない。

ロンドン事件のスタッフは間違っていたのか?

まずロンドン事件では、デパートとして洋服の仕立てを提供すること、期日を守ることという『サービス』は実際のところ不備があったわけではない。
サービス提供者が提供すると決めて、それを約束どおりお客に提供するサービスを基本サービスというが、その基本サービスに不備はなかった。

では接客はどうか。
イギリス人スタッフは、このデパートのサービスがどのようなものであるかを婦人に伝えた。
扱うサービスが何であるか、どのような約束をしているのかということを伝えることは、サービス提供者として行うべき行為であって間違いではない。
接客者がサービスとお客を結びつける上で必要な、サービス側の責任を果たしたということになる。

それではサービスとお客を結びつける上で必要な、お客側の要望には応えたのだろうか?
これが実は応えているのだ。
このスタッフは、夫人が洋服に対して出した仕立ての希望と日時の合意に関して、婦人の希望に応える約束をし、そして実際にその約束を果たした。
サービスとお客を結びつけるという仕事を、これまでになく正確に行ったのだ。
イギリス人スタッフは、接客者としての役割を見事に果たしたといえる。

コミュニケーションの問題ではない

「サービスはそんなに定規杓子なものではないだろう」「接客者のコミュニケーション不足による問題発生は否めない」と考える読者もいるだろうと思う。
あるいは、「思いやりと人間性」の問題ではないかと考える良心的な人も少なくないのではないだろうか。

実際、サービスを提供する多くのお店や企業では、このような事件はあってはならないとして、厳しく指導するところもある。このような事態を起こさないために、思いやりのコミュニケーションや心配りの方法を教えるところもある。

ただこのロンドン事件は、接客者の対人関係やコミュニケーションの問題ではないのだ。

確かに婦人の機嫌の変化はコミュニケーションスキルを駆使し、会話に細心の注意を払えば避けられたかもしれない。
そこまで行うのが正しいサービスであるとするサービスもある。

しかし、このような問題はどんなにコミュニケーション力があり、心配りや気配りができても発生してしまう。
それは問題の本質がお客の側にあるからである。

この問題の核心はお客の甘えと依存にある。
そしてお客に甘えと依存があるとき、このような問題は接客者の気持ちや能力に関わらず発生する。
このような指摘をすると、心穏やかではないものを感じる人もいるかもしれない。
実際私が何かのサービス業を行っているとしたら、こういうことは口が裂けても言えないだろう。
それは間違っているから言えないのではなく、それを言ってしまうとサービスを上手く提供できなくなるから言えないだけなのだ。

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