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特別なお客になる技術

出張帰りのスーパーシート


私は以前よく出張をしていた。
東京―大阪間を新幹線で移動するビジネスマンは多いと思うけども、私は羽田まで車で行ってそのまま飛行機に乗り、帰りも着陸したら直帰するという出張のスタイルを取っていた。

あるとき、伊丹から羽田のフライトで、プレミアムシート席の窓側に座っていたことがあった。
何しろ不精な性格で、チケットはいつも空港に着いてから取っていたので、すぐ満員になるプレミアムシート席に座ることのできる確率は5分5分だったと思う。
この日は運良く座ることができた。
そして、隣の席を見てみるといつまでたっても空席のままだった。

離陸時間が迫り、これはひょっとして誰も来ないかなと思ったそのとき、40歳前後と思われるビジネスマン風の男性が駆け込んできた。
いや実際には、駆け込んできたというよりは、慌てる様子もなく実に緩慢な態度で席に着いた。
そして座るなりお絞りを用意したスチュワーデスに対して、横柄な口調で「日経新聞」とだけ言った。
スチュワーデスはちょうど日経新聞は他のお客のところにあり、そのお客が読み終わったらお持ちするので、先に他の新聞ではいかがでしょうかと、少し引き気味に言った。

男は自分が遅れてきた自覚がないのか、露骨に嫌な顔をし、しかも少し黙った。
スチュワーデスが戸惑う。
そしておもむろにアゴを突き出すうなずき方をしてその場はひとまず終わった。

しかしそれから30秒もすると文字通り駆け寄るような感じで、スチュワーデスが日経新聞を男に手渡した。
男はありがとうも言わなかった。
男の態度は終始そのようだったので、スチュワーデスが見るも警戒しているのは私にも伝わってきた。

軽食の時間になる。
機内食が手渡されたとき、私は本を読んでおり、区切りのいいところで食べ始めようと思っていた。
ところが、隣で猛然と掻き込む音がする。
そちらの方に目をやると、ガツガツという表現が至らないほどの勢いで、機械的に猛然と食事をする男の姿があった。
さすがに気味が悪い。
男が完食してから時間を空けて、私も食事を終えた。
そしてトレイを下げるスチュワーデスに烏龍茶を頼んだ。
スチュワーデスは一度下がったあと、隣の男の空になったビールの缶を遠慮がちに下げた。
そのとき男はぞんざいにもう一本ビールを頼んだ。

チラッとスチュワーデスの顔色を伺うと笑顔がゆがんでいるのが見て取れる。
それほど男の態度はひどかったし、客観的に見てスチュワーデスには同情した。
そしてスチュワーデスは、これ以上はないと思われるほどの素早さでビールを用意する。
しかし、である。
私の烏龍茶が出てこない。
待っても待っても出てこないので、これは忘れているのだろうと思ったが、隣の男を挟んでもう一度オーダーするのもためらわれたし、何よりスチュワーデスに同情していたので、これ以上プレッシャーを与えることをしたくなかった。

このとき機内で何が起こったのか

これは終始憮然とした態度でサービスを受けたときどうなるのか、周囲に与える影響を浮き彫りにしてくれている。
そしてそのようなお客の態度が、場の空気を支配することを表している。
嫌な感情、悪い空気はバイオハザードの勢いで感染する。

ここで注目したいのは、男はクレームを言ったわけはないということだ。
ただ単に機嫌が悪そうで、態度がぞんざいだっただけである。
しかしたったそれだけのことが、接客者であるスチュワーデスに気を遣わせ、何より彼女たちが普段であれば忘れるはずのないお客のオーダーを忘れさせてしまった。
つまり、男の態度は、接客者のみならず他のお客へも悪影響を及ぼしたのだと考えることができる。
サービス全体の毛色を、1人のお客が変えてしまったのだった。

空気を作るキーパーソン

私たちも実は、日々同じような状態を毎日経験している。
たとえば、職場の人間関係は部署やチームなど、毎日顔を合わせる人たちによってある程度固定されている。
その中の部長や課長職にある管理職の性格によって、その場の空気が一変することを経験したことのある人は少なくないだろう。
パワーハラスメントを行う上司がいれば、放任主義の上司がいる。
上司がどのような人物かによって、職場の空気は変わっているはずである。

家庭でも奥さんがどのような人物であるかによって、空気は決まってくるだろうし、学校や塾でも先生の性格で教室の雰囲気が変化する。

同じことがサービスを受ける場でも存在する。
多くの人が一度にサービスを受けるとき、その場を支配するのは誰か強力な感情を持つお客の1人であることがある。
サービス提供者側が強い力を持つテレビ番組や映画館、セミナーなどであれば、そのサービスを提供するテレビ番組の司会者や上映される映画、セミナーの講師が場の空気を決定する。
1対1で対面するカウンセリングや治療などのサービスでは、技術力のある接客者の性格によって場の空気は変化する。

つまり、私たちが社会活動を行う上では、閉鎖された空間で場の空気を決める主導権を持った人がいるということなのだ。
力関係、その人の考え、方向性、性格などで、その周囲にいる人は大きな影響を受ける。

心理実験による証明

これは様々な心理学上の実験によって明らかにされている。
たとえば、ドイツで行われた看守と囚人の実験が有名で、同じ人数の看守役と囚人役を刑務所に似た施設に入れ、モニターで監視した。
最初のうちはふざけあったり、日常会話をしたりしていた看守役と囚人役も、日が経つと看守役は本物の看守のように振る舞うようになり、囚人役は本物の囚人のように怯えはじめた。
そして囚人役の中にストレスに耐えられなくなった者が出たことと、看守役が暴力的になったことで実験は中止された。

この実験は、役割がどのような影響を与えるかということを明らかにしたが、場の空気を看守役が支配するということも読み取ることができる。

もう少し単純な実験であれば、試験中に教室の前に教師が立ったときと教室の後ろに立ったときに感じるストレスの差を調査したものがあるが、想像できる通り、教室の後ろに教師が立ったときの方が、生徒はよりプレッシャーを感じた。

これは立ち位置を変えるだけで、相手に与える影響が変わることを証明したものだが、同時に1人のキーパーソンの振る舞いによって場の空気が変わることも証明してくれている。

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