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営業の本質

営業の本質のふたつ目「良い・正しいという基準であること」1

(前回の記事の6つの疑問に対する考え方からスタートです)

まず、全てに「営業の本質」の1つ目となる「~してもらう」という条件が満たされている。

にもかかわらず4と5が営業ではなく、6が状況によって変わるということの答えを導き出せば、営業の本質の2つ目が見えてくる。

良い人材に会社に来てもらうという行為は、例えば「求人広告を打って、面接をして」という一連の流れが、「商品広告を打って、アポイントを取る」という一般的な営業活動にとても似ている。どちらも同じ企業が得たい成果のために行う営業であると言っていい。
2つの間の違いはほとんどない。違いがあるとすれば「売る」か「買う(言い方は悪いけども)」かだけである。「売る」活動だけが営業ではないことはもうはっきりとしているので、「売る」「買う」という条件で営業かどうかを決めることはできない。良い人材に来てもらうのは営業である。

行政が大企業の工場を誘致するのも営業だといえる。
行政側のアプローチがなければ企業はそのような土地があること、労働力があること、税制優遇があること(あるとすればだが)を知ることができない。行政がそれらをわざわざ知らせるということは、大企業に来てほしい、来てもらうと考えるからで、その目的のために行っている活動が営業である。

お客が水道工事を頼み、作業員に来てもらうという場合、お客は「修理してもらう」からといって、その前提として営業をしたことにはならない。お客は依頼しただけである。
このケースの場合で営業を完結したのは水道工事の業者の方で、これが営業に当たる。
行政が大企業にアプローチするのとは逆に、水道工事の業者はお客にアプローチをしていないように思える。
けれども、実際には電話帳なりチラシなりを用意していたはずだし(だからお客は依頼できた)、その業者がそのお客のところに修理に行くことができたのは、その地域に店舗を構えていたからである。
発する(プッシュ型)か受ける(プル型)かの違いはあっても、業者はお客に修理を依頼してもらうという条件を満たしていた、ということになる。

この3つのケースに対して、次の2つのケースは営業に似ているが営業ではない。

付き合ってもらうために好きな子に告白するのは単純に欲求の問題である。感情の問題と言ってもいいかもしれない。
「~してもらう」ことが目的であるのは同じでも、動機も目的も行為も自分だけが満たされるためにそれを行っている。この行為は感情としては欲求、行動としては自己満足、心理的には安心と満足を得るための行為であって営業ではない。

同じように、八百屋で野菜をわけてもらうように交渉するのは、自分の利害のためなのでやはり自分中心である。自分の状態を満たすために行われる。
好きな子に告白することが前向きなこと、貧乏なので野菜をわけてもらうことが後ろ向きの解消だと仮定しても、どちらも自分の欲求や不遇や現実を満たすだけのために行われている。こういうのは営業とは言わない。内容が前向きであるか、後ろ向きであるかということと営業との間には関係性がない。
とすると、自分の利益のための活動や成果は営業ではない。

では、定期的にパンの耳をわけてもらうことがなぜ状況により営業になったりならなかったりするのかというと、それが自分の利益のための活動かそうでないかが明らかにされていない からである。

野菜をわけてもらう場合のような理由なら、これは営業ではない。

しかしボランティアに属していて、ホームレスのためにパンの耳をわけてもらう交渉をしているのなら、これは営業になる。
では、営業ではない理由(自分の利益のための活動や成果)ではなく、「営業である」という本質は何だろうか?

本質的なことをまた明日書いてみたいと思います。

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