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カッコいい大人になるヒント

被害意識の過剰反応

いつも書いていることを
何度も書くのはどうかなとも思うけど、
焦点を絞って書きます。

被害者意識やめろよ、って話。


先のブログにも書きましたが

「僕(私)は不幸なんだよ」

って自分から言いまわっている人は
そりゃ不幸です。

そんな人を
信頼する人が集まるわけがないし
友達になりたいと思うわけがありません。

「僕(私)は不幸なんだよ」

とは直接言っていなくても

「君に僕の気持ちがわかる?」とか
「つらい目にあったこと知らないくせに」とか

結局、

「僕(私)は君が考えている以上に不幸なんだよ
そしてそれは君にはわかるわけない」

みたいなことを間接的に言っているわけです。

しかも、
こういうことを相手に向かって口にすること自体が

「もっと不幸な僕(私)に同情してよ
わかってよ。ちょっとは勉強して理解しろ」

ということを
求めているだけではなく、
実は、相手に強要しているわけです。


自分の都合を強要されて気持ちのいい人はいません。

なのになぜ強要するのか?

自分は不幸だからよりわかってもらう権利があると
いう心理があるからです。

正直言って、
どんな過去があろうとも
人の気持ちをちゃんと考えることのできる人は
それなりの言い方をするし、
それなりの言葉を使うし、
自分が言うべきことはしっかり言っても
最終的に相手がどう考えるかは尊重します。

認めることはできないかもしれない。
しかし、一応尊重します。

そもそも
自分の不幸をダシにして
相手に行動を強制することが
思い上がりだということです。

もっと言えば、
何様だということです。


僕の実例を2つ挙げましょう。

ひとつは、昔の職場にいた沖縄出身の同僚の話です。
子供の頃に駐在アメリカ兵の
むごい行動を目撃したそうです。

その彼と話していて
何気に、僕の母親が沖縄出身である
という話になりました。

僕自身は沖縄に2回しか行ったことがなく、
いくら虐待母親の出身地だからといって
沖縄に恨みがあるはずはありません。

一言で言えば関係ない。

彼は、僕にこう聞きました。
「お母さんが沖縄の人って、誰かに言ったことある?」
はて・・・?
数秒考えて僕は
「いやー、そういう話はしたことないかなぁ」
と答えました。

それを彼は
「沖縄だって言うと差別を受けるからだ」とか
「黒い目で見られるからだ」とか
そういうふうに決め付けました。

でも、親の出身県なんて
よほど話題に上らない限り人に言うわけがありません。
それを伝えると、
自分と沖縄県民がいかに不幸で、
それが日常的にあるかを力説し始めました。


もうひとつは、
高校のときの暴力教師のお話です。

この教師。
暴力教師であるにもかかわらず、
なんと
「道徳の授業♪」を受け持っていました。

彼は学生の頃に
部落差別を受けている友人がいて、
その友人に
「そんなこと気にするなよ」(俺はお前の友達だよ)
と言ったそうです。

すると友人は熱くなって
「お前は俺たちの何をちゃんと知っているんだ!」
と言われ、
その道徳の授業で教師は
「俺はその時、自分は相手をちゃんと理解していなかったと反省した」
と言いました。


沖縄の話は
不幸を訴える人は必ず嫌われる
ということを。

教師の話は
不幸に賛同すると相手を増長させる
ことを示しています。

順番に説明しましょう。


まずは沖縄の話です。

人が人に
不幸を訴えたいときとは
どのようなときでしょうか?

人によって細かな部分は違うでしょうが
主に2つの心理があります。

1.わかってほしいとき
2.攻撃をしたいとき

「わかってほしいとき」というのは
全ての不幸話の大前提です。

同情してほしい
謝ってほしい
慰めてほしい
話を聞いてほしい
こういう全ての心理の前提に
「わかってほしい」という心理があります。

「攻撃をしたいとき」というのは
わかってくれないという前提がもとにあります。

わかってほしいからするはずの不幸話を
相手がわかってくれないのに
それでもあえてするのは、
相手を攻撃するためです。

お前はひどい目にあっていないくせに
何をのうのうとやっているんだ
と言うために不幸話を行います。
中国や韓国の反日も同様です。

聞き手はこのような不幸話にうんざりです。
同情はします。
言っていることも大半は正しいでしょう。
手を差し伸べるかもしれません。
励ますこともあるでしょう。
一時期受け入れることもあるかもしれません。
知識をつけるために勉強するかもしれません。
しかし、うんざりします。

うんざり、は感情の問題です。
正しいということは事実の問題です。
同情、手を差し伸べる、励ます、受け入れる、勉強する
というのは行動の問題です。

たとえ不幸話の正しさを聞いて行動する人がいても
心から(感情)進んで行うことはありません。

心から進んで行動する人は
自分が自分らしく生きるためにそれをやっているんです。
誰か(あなた)の不幸話がその人を動かしたなんて
勘違いもいいところです。

不幸話は多くのきっかけのひとつでしかありません。


教師の話は、
不幸者を増長させます。

話のポイントは
「君とは友達だよ」
と言うことです。

これに対して相手は
「部落のこと」
を問題にしているわけです。

もっと言えば、
間接的に
「部落のことを知らないやつは本当の友達じゃない」
と言っているわけです。
完全な混同です。

これに対して教師は
納得してしまいました。

納得することが悪いのではありません。
納得のしかたが悪いのです。

友達として付き合うことに条件などありません。
相手とのフィーリングや暗黙の合意です。

どのような人間関係にも
それが人と人の関係である以上
自分の中に相手との距離を取るモノサシがあります。

あの人にはこのくらい親しく、
この人にはもうちょっと距離を持って。
というふうに、無意識で決めているのです。

でも、人と人の関係には、
意識的な条件が入ることもあります。

例えば、
先生と生徒の関係を保つには
生徒が敬語を使う必要があるかもしれません。
敬語を必要としない先生もいるかもしれません。

しかし、
敬語が必要な先生を師匠にするか、
敬語が必要でない先生を師匠にするかは、
結局自分で選ぶことができるし、
選ばなくてはなりません。

同じように、友達になるのに
部落のことを深く知る必要があるか
知る必要がないかは
自分で選ばなくてはなりません。

この教師は、
友達関係を壊したくない気持ちや
自分に知識がないことの負い目などから
無条件で相手の言うままになり
結果として相手の言葉を尊重しました。

それは脅しによる付き合いで
相手を必ず増長させます。
相手は、やはりこの方法が正しいんだと納得します。


声を高く上げて
不幸話を語ることは
何の益がないばかりでなく
むしろ、人を巻き込んで不幸にします。

こんな話があります。
日本では避妊用のピルの使用が
認められたのは2000年前後です。

これは、
医者の権威(売上)が脅かされるとか、
製薬会社の利権がどうとか
そういう理由によって政治に圧力が
かかっていたためとされています。

もちろんそれもあったのでしょう。

しかし1970年代に
ピンクのヘルメットをかぶった女性の団体が
拡声器を持って大々的に
「ピルを解禁にしろ!!」と
声高に叫んだことは意外に知られていません。

その結果どうなったか。
本当にピルが必要な女性は
「必要だ」と言えなくなってしまいました。

恥ずかしいからです。
そんなことを言ったら
ピンクヘルメットと思われるからです。

当人たちからその必要性が声にならないのだから
利権が優先されるのは当然です。
結局この活動もひとつの原因となって
この当時ピルは解禁されませんでした。

大きな声で訴えることは悪いことではありません。
時には無理矢理であっても
一定の効果を上げることはあるでしょう。

でも、相手が心からそれを望んでやるでしょうか?
というか
物事がそれでうまく行きますか?


僕が例えばこのブログで

「俺は子供の頃に虐待を受けて不幸なんだ」
「寄付をしろ!」
「孤児の里親になれ」
「お前たちに何がわかる」

と言って、何になるでしょう?
何が変わり、何を得るでしょうか?
(というか、言いたくない以前に思っちゃいないけど)

何にもなりません。
むしろ、反発を受けるだけです。
うざいだけです。

同じように中国の日本への発言は
中国人の友人がいる人にまで
うざいと思わせる効果があるし、

障害を持った人の健常者に対する
あからさまに嫌な顔は
普段どうにかしたいと思っている人にも
そのやる気を失わせる効果があります。

もちろん
彼らにも言い分があり
そのいくつかは正しいのです。

しかし、
うざいんです。


僕はこのブログで
理想を書いているわけではありません。

それに
全員がそうだともいうつもりもありません。

うざがっている人を支持も弁護もしません。

ただ
人の心理と物事の現象はこうだ
ということを書いています。

だから、
虐待を受けたり、孤児として育った人は
自分の中にある何か熱いものを
表現したり形にしようとするときに、

くだらない不幸話を使ったところで
何かを成すことができないばかりか
反発を食らっておしまいだ。わはは。

ということを伝えるだけです。

それでも不幸話をしたい人はすればいいし、
違う方法を探したいと思った人は探せばいいんです。


世の中には、しかし
本当に心のやさしい人がいます。

不幸話を心から聞いてくれ
時には協力してくれる人がいます。

甘えたいときには
甘えさせてもらって
感謝をしていいと思います。

ただ、
そういう人をこそ
うんざりさせてはいけない、
力にならなくてはいけない、
相手のことを理解しようという気持ちを持たなくてはならない、
優しい気持ちで接しなくてはならない、
ということを忘れてしまってはいけません。

そういう思いやりをなくしたとき
人はただうざいだけの人間になる
のです。

思いやりは不幸話や強要でするものじゃありません。
心から湧いてくるからするのです。

本当に心のやさしい人に思いやりを持てなくなるということは
つまり、
あなたはうざい人間ということです。

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