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序章 - 東の国で偉人が死んだ

大切なことのふたつ目〜正しい妥協

 

そんな中で気がついたことがある。
世の中の多くの人は、みんな「社会からはじまっている」ということだった。

何の仕事を選ぶか、どのような経験とスキルがあるか。
だからどんな仕事を行うことができるか。
その中でキャリアアップと高額の報酬を得ることができるか。
そんなことを軸にしている人がほとんどだということに気がついた。

ところがそうでない人もいる、ということにも気がついた。
本当に少数の人だが、「自分からはじまる」人がいた。

途端にその差を分け隔てているものが何か気になった。

「自分からはじまる」人は自分のことをよく知った上で、「強み」を社会に適合させていた。
そうでない人はいきなり社会の決め事からはじまっていた。
違いは「強み」を使っているかどうかだった。実にシンプルだった。

続けて観察してみると「自分からはじまる」人も、そうでない人も、両方とも「妥協」していることがわかった。
しかし、その妥協にはっきりとした違いが見つかった。

人間は社会的な生物なので、人と人とのつながりの中で生きていくために、時には妥協しなくてはならないこともある。
仕事なら嫌いな相手に頭を下げないといけないことがあるかもしれないし、本当に自分が行いたい仕事を行うには低賃金に妥協しなくてはいけないかもしれない。

経済学では(経済学というところが不思議だが)、そうやって妥協を選ぶのはその方が生産性が高まるからだとしている。
人数が増えるほどに本来なら不自由度が増す。
なのに共同(や妥協)するのは、その方が物事をうまく運ぶことができるからだという。
逆に言うと、物事をうまく運ぶことのできない人とは共同をしなければ妥協もしない。

だから、妥協は決して自分を捨てて屈することではなく、社会を生きるための知恵と考えた方がいいと思う。

ところが、「自分からはじまる人」とそうでない人の間には、妥協の方法に違いがあった。

「自分からはじまる人」はいわば「正しい妥協」をしていた。そうでない人は目の前の状況が変わるたびに妥協していた。

「自分からはじまる人」は強みを生かすための物事に妥協を示した。強みをダメにしてしまう物事には決して妥協しなかった。

そうでない人は収入、生活、人間関係など社会的に求められる全ての物事に対して多かれ少なかれ妥協した。
妥協しないのは自分が行っている妥協を決して改めないことだけだった。


 

「正しい妥協」は常に自分の強みからはじまる。

自分が本来持っている本当の自分に妥協してしまっては、何のために生きているのかわからなくなってしまう。

まず本来の自分を発見する。
その本来の自分を生かすものに対しては妥協する。これが正しい妥協のあり方となる。
このことについて最初の偉人は、半分のパンはないよりマシだが、半分の赤ん坊はないよりも悪いと言っている。

まるまる1個得るはずのパンを半分しか得られなくなったとき、そこには妥協の余地がある。
しかし奪われた赤ん坊が半分しか帰ってこないとなればそこに妥協の余地はない。

強みを発掘して生かすためには、「個別化」の考え方と同様に「正しい妥協」を行っていく必要がある。
でなければ強みを発掘する意味がなくなってしまう。

「赤ん坊は半分では意味がないということはよくわかった、けれどもやっぱり仕方ないじゃないか」という考え方のままでは、強みを発掘する根本的な意味がなくなってしまう。

 

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