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サービスの勘違い

良いサービスだと思われているすばらしい接客


「最近満足や感動したサービスを3つ思い出してください」

セミナーやレクチャーでこの課題を出すと、ほとんど決まった傾向の答えが出る。
たとえば「どこどこの旅館で大変親切にしてもらった」や「有名レストランでドッキリ誕生日ケーキを振る舞ってくれた」など、必ず接客が関わる答えが出る。
そういった答えが出るように質問をアレンジしているので、結果は当然このような答えになる。

そして次に、「身近にある必要不可欠なサービスを3つ挙げてください」というと、これも当然ながら「水道光熱」「コンビニ」「交通機関」などの答えが返ってくる。

さて、どちらがサービスなのだろうか。

しかもどちらが良いサービスなのだろう。

今ここに、ある男の人がおばあちゃんに道を聞かれ、丁寧に教えただけでなく親切にも目的地までおばあちゃんの荷物を持って連れて行ったとする。
おばあちゃんを目的地に送り届けると、男は家に帰る。
そして自宅の玄関に鍵を差し込んだ瞬間、張り込んでいた警察に逮捕される。男は連続誘拐殺人犯だったのだ。
一方、用事を終えたおばあちゃんは家に帰り、夕食時、娘夫婦に今日どんなに親切な人がいたかということを滔々と話す。
若い者も捨てたもんじゃない、とまで言う。

さてここで考えてみてほしい。

男は親切な人だったのだろうか。それとも残虐な人だったのだろうか。
実はこの考え方が、サービスと接客を混同する理由と同じ考え方なのである。

男は人間として残虐であることは、連続誘拐殺人を行っていることから誰でもわかる。
つまり男は親切な人間ではない。
男は親切な人間なのではなく、親切な行為をした残虐な人間であるはずだ。

おばあちゃんはここを取り違えている。
自分に親切な行為をしてくれたので、男が人間として親切であると勘違い(早とちり)しているのだ。
あるいは、親切な行為をしてくれたのだから、イコール親切な人と決めてしまったのである。

これは、接客がすばらしく感動したので、サービスがいいと取り違えているのと全く同じメカニズムである。
親切な行為と残虐な人格が同じでないように、すばらしい接客と良いサービスも同じではない。

サービスは「喜んでもらうこと」だという大きな勘違い

私たちは一個人としてサービスを利用するときに、わざわざ気分悪くサービス利用したいとは思わない。
できればいい気分でサービスを受けたい。

しかし同時に、実は気分が良いことよりも、サービスをちゃんと提供してくれることの方が重要だとも思っている。

どんなに愛想が良く、親切で丁寧な八百屋のおじさんが接客をしてくれても、八百屋に野菜が売っていなければ話にならない。
逆に多少無愛想で、お釣りを乱暴に手渡すようなおじさんであっても、品質の良いみずみずしい野菜を毎日そろえているのなら、私たちはその八百屋で野菜を買おうとするだろう。

つまり、私たちはサービスを通じて「喜ぶ」ということよりも、サービスを通じて確実に提供してもらうことをより重視している。

最初に挙げた2つの質問を思い出してほしい。
「感動したサービス(実は接客)」「必要不可欠なサービス」のどちらが私たちにとってより重要だろうか。
その答えは紛れもなく「必要不可欠なサービス」であるはずである。

であるにもかかわらず、私たちはサービスの良し悪しを、自分がどれほど気分良くなったかで判断する。
サービス提供者が満足や感動を与えてくれたか、親切や気配りができたかどうか、などで「良いサービス」だと決定してしまう。

悪いことに、サービスを提供する側もそれが正しい「あるべき姿」だとしてお客の感情に応えようとする。
喜んでもらうように尽くそうとする。
このことが、良いサービスイコール良い気分を与えてくれるサービスという図式に拍車をかけている。

しかしちょっと考えてみれば、お客を喜ばせることは約束することができないということがわかる。

一方で、必要不可欠なサービスでは、たとえば八百屋は野菜を提供すると、はっきりと約束されている。
旅行社であれば旅行を提供するし、ホテルは宿泊、レストランは飲食を提供する。そして、良いサービスでは提供すると約束したものを確実に提供する。

日本の交通機関は世界中で最も時間を守るし、私たちが引越しをしたときに手続きさえちゃんと行っていれば電気が通らないとか、水が出ないということはまずない。

これは提供すると約束したことが守られているからである。

これに対して、「喜んでもらう」ことという顧客満足は、人によって基準が変わるので約束することはできない。
つまりその努力は、実はサービスの努力ではないのである。

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