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サービスの本質

サービスは価値で測らない

サービスは、提供すると決めたものを必ず提供する活動のことである。
乱暴に言い切ってしまうと、決めたものが支持されるかどうかは関係ない。
もう少し正確に表現すれば、サービス継続提供のために「支持」は少なからず必要な場合があるが、「不支持」は全く必要とされない。

サービスは「価値」という主体的なもので判断せず、「効用」という相対的な視点で判断する。

たとえば、国が提供する障害者補助は公共サービスだが、ほとんどの人には必要がない。
必要性を訴えても認知される障害がなければそのサービスを受けることはできない。
だからといって誰も、国、行政のサービスが悪いとは言わないし、見直すべきだとも言わない。価値がないとも言わない。
ただ、自分には効用がないと言うことができるだけである。

ハリウッド映画が好きな人も、邦画やフランス映画を上映する映画館に対して「サービスが悪い」とは言わない。
自分の満足感に対する効用がないだけのことである。
フランス映画に価値がないとはいえない。

人が障害者補助やフランス映画に価値を感じていようが、感じていまいが、それはサービスにとっては重要なことではない。
特に、価値を感じないという「不満足」や「不支持」は必要とすらされない

ハリウッド映画の方が、フランス映画よりも多くの人に支持されているから価値が高いともいえない。
支持や満足度でサービスは評価することはできない。

まして、障害者補助とフランス映画に、実際の価値があるかどうかについてはなおさら関係がない。
関係があるのは、そのサービスが自分に効用があるかどうかであって、価値そのものがあるかどうかではない。

利用者が満足するかどうかは、そのサービスを求める人の効用が提供されるサービスと一致していれば、必ず満足できるようになっている。

障害のない人が一生懸命障害者補助を受けようとするとき、フランス映画の嫌いな人がフランス映画を見るときに「不満足」が生まれる。
個人の内側の感情によって「サービスが悪い」と評価を下す。

この評価が、サービスにとっては大きな誤解になっている。
これはサービスに不備があるのではなく、お客の効用が合っていないことに原因がある。

サービスは本来価値で測られるものではなく、利用者それぞれの効用によって選ばれるものである。
必要のない人には必要なく、必要な人には必ず必要なものを正しく提供することがサービスの目的になる。
よってサービスの正しい評価の基準は、良い悪いではなく個性違いということになる。

たとえば、頭痛薬を提供することで頭痛から解放することをサービスとして提供することを決めた製薬会社があるとする。
同じような頭痛薬とコンセプトでサービスを提供していても、薬の成分はそれぞれの企業によって異なる。

このときに、早く強烈に効く頭痛薬を提供した企業のサービスが良いとか優れているとはいわない。
胃腸に優しくゆっくり効く頭痛薬を提供している企業のサービスも同様に、良いとも悪いとも言わない。
それは単純に「違い」であって良し悪しではない。

サービスに「個性」と「違い」で生まれたこで、利用者(お客)はサービスを受けるか、受けないかということを選ぶことができるようになった。

公共サービスのころは、それが道路であり、水道であり、電気であるということそのものが、それらを使うことを強制させた。
選択することはできなかったし、選択する必要もなかった。

公共のサービスは生活と社会に根深く関わっていて、社会生活上拒否することはできなかった。
むしろ社会生活の向上に必要であるからこそ、公共の機関によってサービス提供されてきた。
提供される利用者は、そのサービスを利用するか、しないか、継続するかどうかを社会的に選ぶことはできなかった。

しかし、サービスが商売を通じて提供されるようになったことで、サービスの種類と量が急速に増えた。
と同時に、利用者ははじめて、自分の気に入らないサービスを利用しないという選択をすることができるようになった。
一度利用したサービスが気に入らない場合、そのサービスを継続して受けないということも選べるようになった。

だから、自分に合っていないと思ったらわざわざクレームを出さなくても、サービス利用をやめればいいということになる。
障害者補助やフランス映画に文句を言ってもはじまらないし、謝罪を求めても何も変わらない。

ただ同時に、サービスを欲したときに手に入れることができるのは、それに見合う支払いを行える場合という条件もつくようになった。
支払いができなければ、最初から選ぶことはできないようにもなった。

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