自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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「人の心配」をする心理


普段親しくさせていただいている方から、こんな質問をいただきました。

特に、ここ1年、ブログを通じて たくさんの方と出会い、また縁を切った方もいます。
でも、切っても、切っても、姿・形を変えて 結局 また同じ人が寄って来るのです・・・・汗

「アナタの事が心配です・・・・」と言って手を差し伸べてくれるのですが・・・・。
私の心が歪んでいるせいなのか、圧力を感じてしょうがないのです・・・・。
「人の力になれる自分の価値」を認めてほしい欲求なのかと???
「人を心配する心理」って何だろう??????
って考える日々が続くのですが。

私は、大切だと思う人が苦しんでいる時、そりゃあ心配だけど 決まって何もしないんです。
「自分にできる事などない」と決断してしまうのだけど
「いつもと変わらずアナタが大好きです」ビーム長音記号1を送ることしかしないので
安易に?人に手を差し伸べる事ができません・・・・。(やはりラブが足りないのか?)

何故、人を心配して 自分に導く力があると確信がもてるのか分からないのです・・・。

ちょっとオモシロそうだったので記事にしてみることにしました。

(メッセージやメール頂いても必ず記事にするとは限りませんのであしからずです)

原因とか理由は一通りではないと思うので、断言できないのだけども

この質問をくれた方がなぜ「心配される」のか?は(この方を知っているだけに)おおむね見当がつきます。

なのだけども、僕が15年ぐらい前にとっても疑問に思ったこと・・・・から話の寄り道をしようかな。

それはたとえば東京なら井の頭公園なんかで、なぜ人は鯉にエサをやるのか?ということ。

奈良公園の鹿とかでもいいけどね。

松原靖樹の【セミナーを作るオトコ】~長袖編

動物の中で、自分の子供以外に食物をあげるのって人間だけなんですね。

全然関係ないけど、

YASHAというマンガには「同情できるのは人間だけ」というセリフが出てきて、これもまたよく考えさせられます。

神にでもなった気分か、はたまた弱者に恵むことで優越感を感じたいのか?

自分はここにいる、自分は何かができる人間だと自己認識ができるからか・・・・。

心配する心理はおおざっぱに分けて、

この自己認識の心理と、

自分の中の不安という形を心配という形に転嫁する場合と、

もうひとつ、純粋に愛の行為であることがあります。

自己認識の心理が、この質問をくれた人・・・・の相手が行っている行為。

相手側も「心配してあげてるだよ」的態度を示しやすい人に心配するものです。

エサを食べやすい鯉にエサをあげるのと同じ。

大体の場合、その親切を拒否すると「こんなにやってあげたのに」「心を開いていない」とか、

逆ギレされる対象となります。

自分が自分を持って堂々と進んでいないので、人から見て心配してあげるべき対象となり、

といって自分で選ばないものだけははっきりしているので断ると顰蹙を買う。

「じゃあどうしたいんだよ?」に対して、答えがないか、本当にやりたいことはできないというブロックがある。

・・・・というとき、心配してあげたい対象になりやすいようです。

自分の中の不安という形を心配という形に転嫁する場合はよくあるので一番イメージしやすい。

相手が心配なのではなく、自分が不安に感じているのだけども、

「私は不安なんだよー!」と言うと何か人としてまずい気がするので、

心配という形を利用して、自分が安心するために物事を動かそうとするケースです。

習慣化して、いつも心配症になるということもよくあります。

純粋に愛の行為である心配もちゃんとあって、

相手に手を差し伸べるかどうかは全く関係なく、相手のことを気にかける、目にかけるという心配。

基準は相手が相手らしくやっているかどうかで、うまくできるかどうか?ではない。

上手くできなくて苦しむことなんかも含めて、良く見ているという心配のこと。

絶対に手を出さないということではなくて、

相手が気が付いておらず致命的な失敗を犯しそうな場合と、

相手から求められた場合には積極的に自分ができる、相手が相手らしく進める物事で協力をする。

最初の2つの心配と違うのは、最初から相手が決めることだという前提がある心配であるかどうか。

(もっと熟考したら違う答えも出るかも。いいや出る気がする・・・・が、ここではこれで統一)

僕もこの質問をくれた方と同じで、誰かを心配しているときのほとんどは何もしません。

特に自分を証明するとか、自分の不安を解消する行為とは縁がない。

なのだけども、何ができるかできないかは全く別として、

気にかけなくなるというのは完全な諦めです。

質問をくれた方が

私は、大切だと思う人が苦しんでいる時、そりゃあ心配だけど 決まって何もしないんです。
「自分にできる事などない」と決断してしまうのだけど

といっているのだけども、こういう場合のほとんどで

自分にはどーせ何もできないしという先行諦めか、

自分が何かをやったのに否定されると傷つくという先行ガードが働いています。

つまりブロック。

(心配してあげなくてはいけないという逆のブロックもある)

相手を尊重する心配ならしていいし、人間の構造的にたぶん心配するようにできている。

程度や強度は人によって違うにしても、

備わっている機能をうまく使うことはできるはずです。

心配するということも機能や感情(不安の感情)として備わっているということは、

備わっている正しい理由があるわけです。

備わっている者は正しく使えば自分のためにも人のためにもなるし、

使い方を間違えれば自分にとっても人にとっても迷惑で邪魔なものになる。

ここはひとつ年初に、自分にとっての正しい心配の使い方を考えてみたいところですね。

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