自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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「使命」とか言い出しちゃうのはなぜ?


先日のビジネスコースで話になり、リクエストあったのでコラムで。

「使命」ってカッコいいか?

文字通りの命を使うとか、
生まれてきた意味とか、
この一生で成すべきこととか、

そういう意味でよく使われる。
そんなわけない。

そういう意味で使われる「使命」には4つの特徴がある。

まず、必ず外の世界に関わるできごととして使われる。
内面で終わることを使命とは言わない。
ということは、
外の世界でどのように自分を運ぶかという意味を持つ。

次に、必ず制約的な条件枠がある。
キリスト教十字軍のエルサレム奪還のような
広範囲ではなく狭義の行動を含む成すべきことが設定されている。

そして必ず、その設定は自分ではない誰かが作ったものである。
自分の行動を決めるのに、誰かの設定を自分の道だと決める。
自分で決めたと思っていても、
それ以前に得た情報などに左右されて自分で決めている。
その情報が枠を作る。

最後に、その使命には必ず尊さと意味がつけられる。
自分を正常に運ぶためのことをやっているという尊さ、
それをやるとどうなるのか?という意味、がついてくる。

これをおかしいと思わない人は、おかしいと思うところからはじめた方がいい。

この4つの特徴をもつ「使命」にハマる人・・・・・
つまり、
自分の行動を「使命」という発言によって証明する人に
共通の特徴もある。

これまで自分を生かしきれず、コンプレックスやトラウマがある。
自分はダメだという否定をベースに、だがどうにかしたいと思っている。

そういう人が、何か「尊そうな」「意味のありそうな」ものに出会うと
すっかり使命の虜になり洗脳される。

自分を今生ききっているひとが使命という言葉を使うところを見たことがない。

使命モードで何に傾倒するかは人によって変わる。
宗教かもしれないし、ロックかもしれない。
ボランティアの人もいれば、金儲けの人もいる。

だがハッキリ言えるのは
自分の人生に、宗教、ロック、ボランティア、金儲けなどの行動が
尊さや意味を持って存在することはない。

それらは行動であり手段であり、
尊さと意味ではない。

自分を生かし、自分の人生を生きるのに
制約でなければならないといういかなる理由も見出せない。
制約は手段であって目的ではない。

制約された方が、
やっている感があり
人にその意味を説明しやすい

ということはある。むしろその理由しかない。

自分ではない誰かが作ったものが、自分を生かすとは思えない。
自分が持っている個性や資質を促進させることはある。
だが、人の基準が自分の「使命」にはならない。

「尊さ」と「意味」は、言ってしまえば何をやっていてもどう生きていてもある。
またはない。
わざわざそういうことを言い出さないとダメなのは
それがない自分へのマイナスを
その尊さと意味によってカバーするためであり
もともとそんなマイナス人生を行っていること、
それを選択して進んでしまった自分の基準に問題がある。

行動によって解決することはできない。
基準の見直しをしなければならない。
だから使命という言葉の行動では自分の人生は彩れない。

使命は誰が決めたものか?と聞いたときに
代表的にいわれる2つの答えは
「自分」か「神」などの超常的な存在とされる。

自分で決めた場合。それは情報に左右されている。
もしその情報が入らなかった生きていられないのか。
もしその使命を止めたら尊さも意味もないのか?
そんなわけない。

それは自分で決めたのではなく、
人の決めごとにすがっただけでしかない。

神などの超常的な存在が決めたのだとして
では、どれくらいの人がその決めごとに気がついているのか?
守っているのか?

世界中のほとんどの人が気がついていない。
これが使命だとわかっていない。

ではわからない人がダメなのか?

わからない人で人を有効に運んでいる人
身の回りをうまく回している人、
幸せな人、
幸せを運ぶ人、
様々たくさんいる。

なら、わからなくてもできるか、
わかるかわからないかは重要ではないと言える。

わかった人が制約的に行動を絞ってやることを
わかっていない人はやっていない。
むしろわかった方が生き方や行動に不整合が出ている。

仮に神の取り決めをわかった人が実は正しいとして。

なら、こんなにもわかっていない人だらけの人間世界の中で
その正しい取り決めの採用のしかたが間違っているってこと。
全然通用してませんけど?
ということ。

もうちょっと改善なり、歩み寄るなりして
しっかり正しくわかってもらうための努力した方がいいんじゃない?
ということ。
神のやり方に問題があるのであって
採用している人間たちはただ自然に生きているだけだと言える。

そして、ということは
自然に生きているだけで十分に人間らしい。

「それでも使命は確かにある」というなら
もちろんあるということもあるから否定はしない。

でも、そういう特徴を持った人間がその使命に気がつくにはどうしたらいい?

人間は知覚の狭さや、マイナス強度が強いと
すぐにこれが使命だと勘違いする。
絞らなく、他人が決めず、尊さや意味を置いたことに取り組んでも
それが使命かどうかとわかるとは言えない。

人にとって使命がはっきりとわかるときがあるなら
それは死ぬときしかない。
人生の全てを振り返って、
あぁ自分はこういう風に生き、こんな意味と尊さを得たのか・・・
と、死ぬ以前にわかることってあるのかな。

死ぬときにわかることを
それ以前に先行して自分を立てる理由にするのはムリ。

ムリなことに意味付けすんのはもっと無理だ。
毎日こつこつと、自分らしさを探って生きることだと思う。

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