自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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「愛している」は本当に大事?


20代のオレ。開けたドアを持ってる人でした。
オーストラリアやイギリスに住んでいた影響が大きかった。

何しろ日本が嫌いで外に出たので
日本文化にも反発して
特に気の利かない男をバカにして
ただの西洋かぶれになっていただけかもしれない。

で、その中のひとつに
長らくうすらぼんやり感じていた疑問があって
それが「愛してるよ」と言うこと。

よく聞くのは、外人はよく言ってくれるが日本人は言ってくれないというもの。

ところがだね。
全国のいろんな都市で数人はいる
15年以上の幸せな奥さんをヒアリングしてみると
「愛してるって言ってくれるんだよねー」
なんていう話はひとつも聞こえて来ない。

むしろ(イヤマジで)
「そんなこと一言も言ってくれない」
人が多い。

そんなことを一言も言わないだけなら、
ダメダメカップルにもあるわけで
何が違うのかな?と思ってみると
「私が好きで尊敬していればいい」
という、これまた判で押したような答えが返ってくる。

オレの場合。
身近な大切なものに対しては愛情が深い。
が、離れるとかなり思い出さない。

特に弱い立場に立たされているモノ、
子供が夏祭りで金魚を取ってきたけど誰も育てないとか
人間の都合で飼われている犬とか
大人世界で自分では生きていけない子供とか

全員というわけではなく

自分の大切な人だけなんだけど
ものすごい愛深いモードに入る。
それがどんな形かはその場面によって変わる。
相手が求めていなければ消えることもある。

で、なんでそんなことを書いているのかというと
2つ理由があって

ひとつは愛の示し方、行為のしかたは人によって異なり
対象となる相手もその人の基準による、
しかも
愛を鍛えたことがない人は未熟で強度が弱い愛しか結べず
という個性による特徴がある、ということ。

もうひとつは、

そういうときに愛しているよという感情がわかないということ。
「好きでしょうがない」という感情がわくことはあると思う。
が、好きがわいて来ないけども確かに愛している、ということもある。

感情がわかないということは、
それに従って思考から言葉が出ないということだから
「愛してるよ」という概念がそういうものではない可能性がある。
(少なくとも日本文化の日本人にとっては)

だから、自分にとって誰をどのように愛すのか、
結びついて素晴らしいものになっているのか?には
個性があるから
個性に応じたところをやっていればいいし(少なくとも最初は)

そもそも愛しているという状態が
「愛しているよ」と発言する状態ではないのだから
(むしろ言っても心はさほど伴っていないことも多いのだから)
別にいわなくてもいいんだな。

子供を見ているとよくわかるけど
特に日本人の子供は「ママ好き~」とは言っても
「愛してる~」とは言わない。
概念がないし、
そもそも”I love you”の概念と同じだとも言えない。

「愛してる」と言ってほしいのは、もしかしたら
オレが20代のときにドアを持っていたように
タダの西洋かぶれかもしれない。

なぜなら、

愛の結びつきが既に深く信頼できるものであれば
そんなことをわざわざ求める必要もないわけで、

そして、

実際に世の数少ない愛され妻のみなさんは
なんだかんだ言って愛と幸せは手にしていても
必ずしも言葉を手にしているわけではないのだから。

本当に必要なものが何なのか
見誤りたくないものだね。

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