自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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「物事の理」を理由に正当化する、というのも怠慢です


【「処世術について」シリーズ】

処世術を身につけない、というのもまた怠慢なのです
「物事の理」を理由に正当化する、というのも怠慢です (この記事)


この記事

処世術を身につけない、というのもまた怠慢なのです

に引き続き。

というのは、ざっくり言えば本当に正しいこと、です。

本当に正しいって主観じゃないの?みたいな見方もできるのだけど、この際細かいところは省略。

例えば

「愛って尊いだろう」

「幸せになろうよ」

「人は人の支えなしには生きていけないんだよ」

「命の偉大さ」

「感謝や感動の大切さ」

とかなんとか、ともかくもそれを持ち出すと何だか無条件に

ですよねぇ~ぐへへ、わかってますとも。ちょうどそれをやろうと思っていたんだよ・・・っていうようなこと。

もうちょっと説明的な言い方をすると

人間が人間として持っている大切なこと、と言ってもいいかもしれません。

人は自分の行動をよく正当化します。

正当化の背景には、自分は間違っていないという思い込みがあり、

その思い込みの背景には、自分は間違っていないという理由があります。

この「理由」は場面や人によって変わるのだけども、

に忠実な人であればあるほど、自分の正当化を本当に正しいと思いこみやすいという傾向があります。

愛の実践者、かつ幸せを満喫していて、自分の感情にストレートに向き合い、

人として生きることの素晴らしさを知っている・・・・なんていうのがもう、書いていて違和感あるのだけど、

という人は、自分の生き方を肯定することはあっても否定や疑問を持つ余地がなくなってしまいます。

人間として素晴らしいものに忠実に生きている

が。

自分として素晴らしいものに忠実に生きている、ということとはまた違います。

を使うことによって、自分の生き方、考え方、捉え方、接し方などを正当化しているだけです。

処世術に流される人は、自分を失ってうまくやらねばならないこと中心に生きるようになります。

理によって正当化する人は、自分を失って正しさで生きていくようになります。

乱暴に切り分けると、

処世術に流される人は成功を求める傾向があり、

理によって正当化する人は幸せを求める傾向があります。

つまり、それぞれ

「処世術に流されなければ、なんも成果を出せないダメ人間だ」という前提があり、

「理によって正当化しなければ、自分は生きる価値のないクズだ」という前提があるということです。

どちらも自分不在です。

僕は中学生ぐらいから「便利な言葉」を使う人が大嫌いでした。主に教師。

「常識でものを考えろ」という処世術に流された言葉を受け入れたことはないし、

「人に貢献する自分でありましょう」という理の正当化によるウソを信じたことはありません。

処世術の中に自分を生かすものと殺すものがあるように、

理の中にも自分を生かすものと殺すものがあります。

自分の人生生きるなら・・・・が、ちょっと大きすぎるなら、

自分で選択や決断をしていこうと思うのなら、

人として正しい便利な言葉に決して流されないことです。

そんなものよりも、自分の心が本当は何といっているのか?ということにもっと目を向けて、

その答えを忠実に採用することです。

ま、本当は何といっているのか?を知ることが難しいわけだが・・・・

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