自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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【心の強み05】人格が上がると起こる現象


■孔子には「立派な人はダメな人をダメと言う。ダメな人は立派な人をダメだと言う」という趣旨のことが書かれている。ややこしいので何が立派か、ダメか、そして立派な人はダメな人をダメというのか?という様々な疑問は置いて、内容を考えてみよう。なぜそんなことが起こるのか?
 
いきなり話が逸れるが孔子にはこういう「立派な人」と「ダメな人」の対比がよく出てくる。これはこれで面白いものもある。
 
立派な人はダメな人の「何がダメなのか」ということがわかる。そこはすでに通った道であり、山の頂上にたどり着いた人には2合目も3合目もよくわかる。
一方ダメな人は、3合目こそが世界だと思っている。この素晴らしい3合目に意味と理由をつける。だから、その理屈に反している2合目や頂上は良いものではないと決めてしまう。
 
ここには興味深いいくつかの、本質的なルールがある。
 
・上に上がると下には戻れないという不可逆性
・上から下は見えるが下から上は見えない
・すなわち、上の方が知覚が多く、下の方が知覚が少ない
 
これは例えば、親子の関係ににているかもしれない。
子供が小さければ、自分の思い通りにならないことを親のせいにし「嫌い」と言ったり、反抗したりすることがある。「自分の気持ちなんてわからない」と言う。
ところが親の方は(まっとうな人なのであれば)その気持ちはよくわかっているし、なぜその気持ちになるのかもわかる。その気持ちにならないためにはどうすればいいかもわかるし、なぜそうしないのか、できないのかもわかる。そしてそれを伝えたところで経験(知覚)がなさすぎてできないだろうし、やらないこともわかる。
 
もはやわかることだらけと言ってもいい。
 
お菓子を買ってもらえないことや、もっと公園で遊びたいのにそれが叶わないとき、世界の絶望かのように号泣する子供がいる。
人として未熟であると言わざるをえない。
 
 
 
 
■人格の上下のこの特徴を知れば、次の特徴が見えてくる。
人間関係にはマッチングセオリーというものがある。簡単に言えば「同類と仲良くできる」というものだ。
人格を高めるには「そうしようとする意識と行為」が必要になるので、それを行う人と、それを「しない」か「反したことを行う」人・・・つまり人格が低い人とは、関係が上手くマッチしない。
 
そして人格を高める人や実際に高まっていっている人と、高めないまたは低くする人の人口比率は後者の方が圧倒的に多い。
 
「数は力」だから、いつの時代も、どの国でも、人格が低いマジョリティの方が正しいことであるかのように思える。
少なくとも数が少ない人格者は、それを理解してもらったり、共有できる人に巡り逢う確率は低い。従って、人格者になればなるほど深い人間関係の幅は狭くなる。
孤高を強いられることになる、といえる。
 
このことが自分の人格を高めることを阻害する原因になることもある。
 
 
 
 
■一方で「知覚が強制的に広がる」ということが起こる。
人格を伸ばすためには例えば努力をする。適切な忍耐も行う。内面のことなら許しに取り組むし、厳しさにも取り組む。そうすると、それをしない人よりも、する自分の方がこれまでにない様々な経験をすることになる。実際的にも精神的にも。
 
これが上から下はわかるが、下から上は理解できないということにつながる。
 
知覚が広がるということは知る物事が増えるということだ。しかも自分の心の強みを上げていく基準で物事が増える。ランダムになんでも新しいものをやればいいという適当さとは違う。
自分の心の強みの当てはまるところ、あまり当てはまらないところがわかってくる。当てはまらないとき自分をどのように扱えばいいか?ということもわかってくる。当てはまるときにも種類があり、得意が一通りではないということもわかる。
心の強みの適用や適合がわかったら、それをもっと伸ばすことができないだろうか?と思うだろう。すると試行錯誤が始まる。頭の中では仮説が生み出される。人よりも動き、人よりも考えるようになる。その結果上手くいくこともあれば、大失敗することもあるはずだ。様々な結果を経験することで人よりも感じるようになる。
 
 
成果にコミットしている人はこれができない。成果というのは目的でありゴールであり、達成されなければならないものだ。それは必ず「知覚の中」で行われる。
成果は遅ければ遅い方がいいということはないし、成果は上がらない方がいいということもない。
だから今現在ある知覚を使って、なるべく早く、確実に目的を達しようとする。
 
この行為行動が、時間のかかる努力や忍耐、許しや厳しさの幅を広げ、試行錯誤して成果に結びつかない行動をさせ、思考をさせ、負の感情を経験させることを避けさせる。つまり人格は向上しない。人格と引き換えに成果が向上する。
 
成果を上げることがに長けている人、成功者や幸せを手にしている人が「どうにもつまらない人間に見えてしょうがない」というのはこういう理由がある。
 
 
 
 
■心の強みを伸ばす方向で人格が高まる。知覚が広がり、様々なことを人間性として経験してきた。しかし生きていくためには成果も必要だ。だから成果を上げることもするだろう。
両者を両立すると結果としてこうなる。
 
人の評価は目に見える「印象」、少し関わった「性質」で判断することが多い。だがもちろん人間性が高いなら、そういうものを重視しない。自分の評価も人の評価も。もう少し回数を交わした「性格」も自分のことを表しはしない。浅い。
だが圧倒的に多くの人が、自分があげた成果を元にしてこの3種類の評価を自分に与える。評価ではなく判断であることもある。「あなたはこのような人間だ」と判断する。成果で判断されてしまう。
 
だが自分はそのような人間ではない。
 
成果を基準にして自分という人間を判別されることは、人格者にとって最初耐え難いことになる。そうではないことを、そうだと多くの人が認めている。しかし次第に慣れ、諦めに変わる。
「下から上は理解することができないのだ」と本当の理由を持ち出す。しかしそれが諦めであることに変わりはない。
 
 
運良く、人格が高い親しい人がいればいい。あるいは今の人間性は高いとは言えないが、自分のことを正しく理解しようという人に恵まれているのならいい。
もしそうではないのなら、自分から自分のことを理解してもらう努力をしていく他なくなる。諦めれば二次になり、相手を啓発し伸ばそうとすれば逆次になる。
 
人格が高かろうがなんだろうが、人間だ。心理があるし寂しさもある。誰も好んで孤独になりたくない。孤高を強いられるのはしょうがない。だがしょうがないだけしか選べないわけではない。
これまで人間性を生かそうと人よりもはるかに頑張ってきた。その上まだ、人に自分を知ってもらう努力までしなければならなくなる。それが負担になるか簡単なものなのかは別として。
 
人格を高めていくとそんな状態に置かれることになる。
 
逆に、そのときに(も)自分の人格が試されている、と言えるかもしれない。
 
 
 
 
 
人格を上げていくとこういった「現象」が起こる。誰にでも同じことが起こる。
それを知って上げていくことができた方が、知らずに上げていくよりも道程としてはいいんじゃないか。

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