自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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【心の強み09】人格者は多重人格


■「人格者」と言われると胡散臭く感じるか、理想過ぎて堅苦しいように思うのではないか。誰ものことを平等に受け入れ、前に向かってともに進む原動力を持つ的な・・・。

もちろんそんな「イメージ像」が人格者であるわけがない。

内的な個性である「心の強み」を伸ばし続け、個の頂への登頂成功者こそが人格者だ。自分特有の人格を高め、自分が自分であることのオリジナルを追求した。

だから「人格者」のイメージが固定されているのはおかしい。人格者には様々なバリエーションがあるはずだ。

■心の強みは、自分の持つ資質に関係するものをざっくりと見ても8つある。

それぞれが人によって異なり、それぞれの何をどのように伸ばすのか?も違う。4つの資質の対(能動と受動の対)になっている分野を伸ばし得られる性質の状態も違う。

そもそもそれらを発揮する場面が全く違ったりする

ある場面では「誠実さ」を発揮するが、別のある場面では「自立」を発揮する。

これは知覚が狭く、人格を上げる努力をしていない人からすると、一貫性のないまちまちな態度に見える。しかし力強いので何かわからないし説明できないものを感じる。それはまるで全く別の人間をひとつの体が行っているように見えるという意味で『人格者は多重人格者』に見えることがある。

通常言われている疾患系の多重人格者は、精神の病理が根底にあり、人格が分裂して多重人格になる。

あるいはごくごく一般の人であれば、家庭と仕事というように、単純に場面によって自分を使い分ける。これも一種の多重人格と言えなくはない。(本来は多重性格の方がしっくりくる)

人格が重層になっており、かつバリエーション豊富にある。

それを場面によって使い分けることで、どの人格の筋道を軸にするかが変化する。よって多重人格を使うことが可能になる。(使わざるを得なくなる)

■例えば心の強みには、優しさもあれば残酷さもある。

ある条件が揃うと、自分なりの方法で誰も敵わない優しさを打ち出す人は、

別の条件が揃うと、自分なりの方法で誰も敵わない残酷さを打ち出す。

これは個性の性質の問題であって、善悪の話ではない。

他人が端からこの様子を見ていると、

昨日は優しくしていたのに、今日は残酷にしているように見える。

行動に一貫性がなく、人格が分裂し、危険なように感じられる。

しかし「行動」はもちろん状況と内容によって変化するが

『基準』は本人の中で何も変化していない。一貫している。

つまり心の強みを高める人の一貫する態度は基準にある。

■しかしその一貫性がいつも同じでわかりやすく、人から理解されやすく、自分でも達成しやすいものであれば、それは心の強みの一部に依存して使い勝手がいいから使っているだけ、にすぎない。

人格が高まっていくと「基準」の数が増える。それをどの場面で採用するか?という基準もできてくる。そこを間違わないような「態度」を持つ。

これが人格者が多重人格になる(ならざるをえない)理由だ。

もちろん下から上を理解することはできないので、人からは単純に一貫性のない人間だと見られることもよくある。

逆に、一貫性があり素晴らしい人間だ、だから人格者だ。と「言われている」人は、人が心に響きやすいポイント押しをしているのであって、もちろん人格者ではない。そういう人は優れたプロモーターだ。

■「強み」が年齢が上がっても見つかるように、「心の強み」も年齢が上がっても新たなものが見つかる。最初から備わっているばかりではなく、高めたことによってでしか発現しないような心の強みもある。

これは隣接可能領域に入るイノベーションのような考え方と同じで、この人格を手にしなければ(この心の強みを使いこなさなければ)、次の心の強みは発動しない、ということだ。

それほど心は柔軟性に富んでいる

人格を上げるということを別の言い方にすれば「柔軟性を上げていく」ともいえる。柔軟性が下がり可動域が狭くなればなるほど人の心の可能性は下がる。その心の状態によってでしか自分を運ぶことができなくなる。

例えば感情に流されて生きていれば、その状態でしか自分を運べなくなる。

こういうのは人格が低い。

心の強みはまだまだやることがある。

まずは柔軟性の下がった心の手入れをすることがスタートになるかもしれない。

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