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信じないと疑うは違う


こちらは2010年02月11日に掲載されたコラムです。

この記事が信頼系記事最後になると思います。

信頼と信用は違います  
理解のない信頼はありません  
信じないと疑うは違う  (この記事)

 

字づらだと「信じない」は拒絶、「疑う」はまだ興味アリという印象があります。心理的にもその通り。

一般的に考えてみると、疑うの枠の中に信じないがあるという二重枠状態「◎」です。

疑いがあっても信じる場合と、信じない場合があります

が、信じない上に疑うというケースはほとんどありません

っていう、言葉遊びをするつもりはないので、

2つを切り分けでそれぞれ違いを見てみます。

特に人間関係になると、信頼するか疑いを持つかというのは逆の意味で使われることがあります。

恋人関係とかね。

信じるの反対は、疑うではなく信じないで、

疑うの反対は、信じるではなく確信がある、です。

まず信じるの方から。

信じるという言葉を使うとき、その背景にはほぼ必ず信じないという心の動きがあります。

「彼女が浮気などしないと信じている」と言うとき、なんとなく不安で、でも自分を説得しているニュアンスがあります。

「君は前世を信じる?」と誰かに聞かれる時は、必ずその相手は信じていない側寄りであったりします。

なぜなら、前世があるかどうかは別として、ある可能性があると捉えているのなら

「前世って実際のところあると思う?」という聞き方になるはずで、信じるかどうかを持ち出す必要がないからです。

信じるという言葉を使った瞬間に、もう信じないが抱き合わせのワンセットとしてもれなくついてきます。


「彼女が浮気などしないと信じている」
「君は前世を信じる?」から見えてくるのは、

信じるという言葉を使うときは必ず、感情優位、事実劣位の状態にあるということです。

感情や気分を満足、納得させる必要があるときに信じるという言葉はよく使われ、

言葉がよく使われる時には、それを証明するための理論・理屈がこれもワンセットになってついてきます。

「オレの彼女は浮気なんてしない。なぜなら云々~」とか「前世なんてない。これこれこう証明できる」とか。

乱暴にまとめると、信じるの背景には必ず信じないという前提があり

気分を満たすために、理屈によって物事を固めるという特徴があります。

疑うというのはネガティブイメージを強引に排除して考えると、可能性の模索です。

言葉で簡単に言うと「本当にそうなのか、そうでないのか探す」という行為です。

これが恋人の浮気の可能性を疑うとなると、たちまちのうちに不信とワンセットになりますが、

例えば、科学者が疑うことをやめてしまうと世の中の理屈は成り立たなくなってしまいます。

疑うという物事に罪があるんじゃなくて、

それを扱う人が感情的に使うので不信になり、それを扱う人が可能性を追求するために使うと道具になります。


「彼女の浮気を疑う」
という場合は、感情とワンセットでほぼイコール信じないという意味を含むけども、

「前世の存在を疑う」という場合は、事実の可能性を検証しているだけ、という意味になります。

疑うの反対は、確信があるという状態なので

「彼女が浮気をしないと知っている」なぜなら彼女の事実がこれこれこうだからだ、とか

「前世がある(ない)と知っている」なぜならこれ以上疑うことができない本質的理由があるから、となります。

乱暴にまとめると、疑うの背景には必ず「可能性の追求」と「事実確認」という前提があり

気分とは無関係で、確信に近付くための行為という特徴があります。

信頼系シリーズひとまず全部書ききりました。スッキリした。

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◆ 人生を作る【一次】の生き方

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