自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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信頼、尊敬の可能性幅と「理解者」


結論先取りして書くと、
人を信頼する、尊敬する度合いというのは
自分を信頼、尊敬する度合いにやや比例する

ということ。

信頼や尊敬に関わらず、何事につけて
人は自分の知覚範囲内で物事を判断するし、処理する。

例えば、自分が相手を精一杯知ろうと努めてみても、
理解できる範囲は、
自分が知覚している物事に上手く当てはめることができたところだけ。

ということは、
知覚の広さと、相手を受け入れる素直さがなければ(←結局知覚を広げるということ)
自分の思いたいように相手を判断するしかなくなる、ということ。

人を信頼しよう、
人を尊敬しよう、と思っていても
自分ができる範囲内で、精一杯やっているつもりになるしかない。

相手に全幅の信頼を置くというのは、
そして相手に絶対の尊敬で挑むというのは、
夫婦、男女関係に絶対に必要なことで

疑問があるとか軽蔑するとかいうのとは別に存在する。
疑いがあるけども、信頼が必ず勝る。
軽蔑する部分があるが、絶対的な尊敬がある。
というように、一件矛盾するものが両立できる。

だから大事なことは、全幅の信頼と絶対の尊敬。

「相手がそんなに信頼に値する人ではない」
「相手にそんなに尊敬できるところがあるならとうにしている」
というのは、だから
自分で自分に対する信頼値と尊敬値が低ければ、
相手云々関係なく、
自動的に相手に対する信頼や尊敬ができていない可能性がある。

自分の信頼、尊敬の知覚内でしか
相手を信頼、尊敬できないから。

だから、自分の知覚の欠落が、
相手への信頼と尊敬を欠落させ、

ひるがえって、相手からの信頼と尊敬の欠落、
そして欠乏感と諦めを喚起することになる。

諦めは相手にとって、理解として受け入れられる。
なぜなら、自分に対する信頼値と尊敬値が高いために
相手を等身大に信頼、尊敬したら
どこが落ち着きどころであるかがわかるから。

知覚が狭いために、相手を等身大に信頼、尊敬できないということは
つまりは、相手をその相手自身として見ることができないということになる。

相手を相手の等身大に見ることができないということは、
対等に付き合うことができないということになる。

相手を誤解して、理解が曲がっているのに
人としての付き合いが対等になることはない。

人と対等と付き合うための、
信頼と尊敬をベースにした知覚広げ
誰にとっても、いつでもどこでも必要になる。
そのために素直さや受け入れの態度がある人の方が
それを持っていない人よりも人と対等に付き合うことができる。

素直だから、受け入れをするから対等なのではなく、
それを持っているから
相手の信頼性や尊敬度を受け入れようとできるし、
自分の信頼性や尊敬度を上げていくことができる。

全体的に信頼、尊敬の知覚が広がるので、
人を真に尊敬、信頼できるようになる。

自分を信頼できている人、自分を尊敬している人は、
それをするという決断ができる。

だから、やっていない人を見て「決断をしていない」と思う。言う。
が、本当は決断以前の問題がある。

そういう人は往々にして、
「尊敬する人は誰ですか?」という質問に答えることができない。
なぜなら、最も正しく尊敬できているのは自分なので
他の人はそこに至らないから、
見本のように人を尊敬することはできない。

ある意味自己が確立しているので、
人をその人自身として尊敬することはあっても、
尊敬の対象として羨望することはない。

そういう人が人を尊敬するときは、
自分が持っている自分に対する尊敬や信頼を
さらにうまくできている人を見つけたとき

まだ自分は体現できていないことをやっている人に出会ったとき
正しい尊敬の羨望として、自分と相手を認めることができる。

そういう人の数が増えてくると、
さらに知覚が広がって、強みの共同がはじまる。

尊敬が尊敬を、信頼が信頼を呼び
強固な人間関係と信頼関係ができあがる。
そういう人と知り合えた人生は幸せといってよく、
本当の理解者、というのはこういうところから生まれる。

通常は、信頼の認識が違ったり、質が違うということで
理解し合えない人の間で起こる受け入れと許しの関係がよくある。
本当の理解者の関係ではない。

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