自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

HOME / コラムを読む

個性と低レベルは違う


直感力の優れている子供には
大人がウソをついているか
ごまかしているか
大人の事情に流されているか

などを見分けることができる者がいる。

子供なので言語かはできない。

とにかく「絶対に何か違う」と断定できる
決定的な判断能力があったりする。

それは直感力だったりする。

ところが、そういう子供の立場からして
お父さんはお母さんはウソをついているわけではない。

だが何かおかしい。

言っていることは絶対にそうではない。
猛烈に違和感感じます。違うと断定できる。
でも、
お父さん、お母さんは本気で本当のことだと思って言っている。

というのがある。

これは直観力だったりする。
物事が本当にそうかどうかを見分ける力。

大人になると多くの人が「自分はこういう人だから」と
自分がどんな人間であるか?を特定しはじめる。

そのほとんどはブロックによる不安の回避だったり
正当化による自己証明だったりする。
言わばウソの領域に入る。

ところがウソではない、自分は本当にこういう人間なんだ!
という場合にそれは個性ではなく
ただの未熟であったりすることがある。

子供が直感で見分けるのはウソ・・・ブロックや正当化だが
直観で見抜くのはこの未熟さにある。

本当のことを言っている。少なくとも本人はそう思っている。
だが、
本来の物事はそうではない、それっぽっちではない
というのが「ただの未熟」で
つまり低レベルになる。

例えば「人を愛する」というのは
必ず内面の状態と行動が含まれるので
内的に未熟であるとか
行動をよく知らない、結果を出せないとか
そういうことは起こりえる。

特に若年であればあるほど起こりやすい。

若い方が心の扱い方に慣れていないし
正しい行動を知らなかったり、結果を経験したことが少ないから。

だから愛に未熟な者はいる。
それを個性と呼ぶことはできない。
ただの未熟者でしかない。

個性というのは他の人と違う自分の性質のことで
例えば
身近な人にはものすごい愛情を注ぐけど
ものすごく近いわけではない人には
苦しんでいようとも手を差し伸べない、
ということがあったりする。

その人の性質によるのならそれは個性だし
(子供が違和感を感じない)
心も行動も浅いので手を差し伸べないのは未熟になる。
(子供が違和感を感じる)

どちらもブロックのような不整合はない。

未熟でありながらいい年になると、
「これが自分だ」と思いたいために
未熟を個性とすり替える、ということが起こる。

これをやると人生終わる。

生きてはいけるし、自分を生かすこともできる。
だが自分の人生を生かすことはできなくなる。

未熟を埋めるというトライは
生きている以上ずっと続けるべきだし
まして個性とすり替える正当化をやっていいわけがない。
「それが自分だから」というのは楽にできる。
そうやって人生を捨てている。

トップに戻るボタン