自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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公私混同せよ。


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松原靖樹の【セミナーを作るオトコ】~小刻み編 Powered by Ameba-未設定

自分を生かす。ということで強みをはじめとしたセミナーを数多くやっている。

自分が何なのか?どのようなものを備え持っているのか?

どんな人間なのか?ということを知って、適切に使えば自分をそこそこ生かすことができる。

少なくとも、おそらく

今よりもはるかに自分を生かすことができるようになる。

単なる無意識でやっていることが、

意識的に自分自身を知ることで、

うまく効果的に使えるようになる。

つまり「私」をより生かすことが可能になる。

なのだけど、自分が備えている物事と、社会とか人間関係的に求められる物事は違ったりする。

そもそも、人はみんな違う。

個体差が必ずあって、共通しているクローンのようにはできていない。

違うものが共存してやっていかなくてはならない状況に直面させられる。

そこでうまくやるためにルールが作られ、様々な取り決めが生まれる。

違う人どうしてもコミュニケーションを取って、

摩擦や争いが起きないように文字で、文化で、法律で、共通認識を広げようとする。

つまり「公」を生かすことで自分たちを上手く運ぼうとする自助努力が生まれる。

ところが、往々にして

「公」ありきになることで「私」が死ぬ。

ルールを守らなくては人間失格ですよ・・・みたいな誤った考え方がまかり通るようになると

人としての尊厳は簡単に踏みにじられるようになる。

公私混同という言葉は、「公優先」「私下位」の上下関係を表す言葉で、

本質的に矛盾、本末転倒なことになっている。

「私」という漢字はもともと「ム」と書く。

この「ム」の上に「ハ」を加えると「公」になる。

「ハ」は「反する」という意味で、

「私」反するというのが「公」のもともと持っている意味になる。

公私が一致していればこんなことを書くこともないのだけども、

公私が反していれば優先されるのはいつも必ず「私」の方である。

「公」がなくても

ある。

「公」があるから「私」があるわけではない。

物事の順番として必ず「私」からはじまり、「私」

「公」はその「私」

「私」の関係がうまくいくための道具としてあるのであり、

「公」のために「私」があるわけではない。

特に、人としての尊厳を踏みにじられてまで守るべき「公」はない。

協調や人のために自分を殺すことなどしなくていい。

これは人民がいるから国があるのか

国があるから人民が存在できるのか?という

社会学や政治学の話に似ている。

この答えも決まっている。

国民がいなければ国は成り立たないが、

国がなくても国民は成り立つ。

物事のはじまりが、国ではなく人からスタートしている。

国と人の利害が不一致になったとき、

優先するべきは人にある。国にはない。

「公」「私」は一致度が高い方がいい。

自分らしく、自分の資質を生かし、素の尊厳が守られることと

その自分を取り巻く環境は一致している方がいい。

一致している必要がある

と言ったとたんに、それが難しく考えられてしまう。

公私の一致が難しいと考えてしまう心理背景には、

「公」を自分で作ることはできないという思い込みがある。

「公」というのは与えられるものであり、決まっていることであり、選べないことで

だから合わせなくてはならず

自分の希望をそこで通すのはわがままで自己中で協調性のない間違った人間だ、という

誤った知覚がある。

「公」を自分で、自分の「私」に合わせて作るのが真の公である。

それは自分を生かすという意味で「私」の追求でもあって、

「公」は与えられ強制されるものではなく、自分で作るものだと捉える必要がある。

「公」を作るために資質をフル発揮し、素を貫き通す。

当然、それに反発を覚え、嫌悪する人は去る。

賛同し、共感する人が残る。淘汰が起こる。

この淘汰によって真の公を作る。

【関連記事】  淘汰術。


気をつけないといけないことは、

「私」のための「公」であって、自分を生かすための公であって、

私心(欲求とか欲望とかエゴとかを満たす)のための公ではないということ。

ここだけ押さえれば、後は自由に、自分らしく公を作りはじめることだと思う。

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