自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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対等であることについて。


対等でない、という状態のほとんどが上下関係です。
上下の何がいけないのか?というと、
実のところそんなに「いけない」ワケではないと思う。

特に、人が集まって何かを成そうとするとか共同するとか
社会的にうまくやっていくために
必要であるのなら上下をむしろ作ってもいい場合もあると思う。
ただ、
個人の生き方や尊厳を考えるとき、
そして誰と付き合うのか?を考えるときに
対等という考え方はものすごく意味を持ってくるのだと思う。

自分で自分を自己卑下したり、過剰評価して
自身に対して対等ではない付き合いをして、
自分の心にウソをついて、それに気がつかないメカニズムを作って
これが正しいと信じて一歩も譲らずに
誤った自画像に誤った感覚で付き合っていく。

まさに対等でない、こういう場合
果たして自分らしい、良い人生を歩めるんですかね?

誰かと付き合うとき、上下関係からスタートする。
相手との違いを尊重し、相手そのものを見ながらの付き合いではなく
その方が便利であるという処世術的理由によって
上下関係のシステムに当てはめて付き合いをする。

まさに対等ではない人間関係。
果たして死ぬときにその人と知り合って良かったと思えるんですかね?

対等であるということの前提には
自分は自分であることを尊重し、
相手は相手というひとりの人間であることを尊重するという
姿勢と責任がある。

責任というのは、
相手のことは相手が決め、
自分のことは自分が決めるという根本的なあり方のこと。

だから子供にも対等ということは
子供が自分のことを決める責任と、
対等として接し接される人としての責任を持ってもらうことになる。

だから神様と対等ということは
自分は神様にひれ伏す下等な種族ではなく
神様に自分の考えでこちらをサポートしてもらい、
こちらもはっきりと何をしてほしいかを伝える。
一致するなら助けてもらい、一致しないならさよなら。

僕は犬にも対等であるけども、
対等発生の条件はコミュニケーション発生の条件と同じで
相手がいなければ対等という物事は生まれない。

関係性の中ではじめて
対等であるかどうかが問われるし、意識に上る。

ということは自分に関係のない人や動物や物事に対しては
対等に振る舞うことも、そう考えることもない。

と考えると、
一体誰と、何と、対等に関係を築きたいのか?
ということが最も大切であって、
対等でなくてはならないというのは勘違いの押しつけ、ということになる。

僕も嫌いな人や、どうでもいい人には対等に振る舞わない。
上下で振る舞うこともあるし、
無視することもあるし、
軽蔑モード、その他諸々になることもある。
どーでもよい人は、どーでもよいという振る舞いをする。

なぜ対等である関係を求めるのかというと、
人生で自分らしく生きていくために
対等でよい関係が築ける人が少しずつ増えることが好ましいからで、
死ぬときにその方がよい人生であったと思えるからで、

しかし自分にできることのベストは
ただ自分が対等に付き合いたい人に、対等に振る舞うことぐらいしかできない。

でも、それはできる。
それしかできないが、
できるのなら自分ができるようにやってみる、ということである。

まぁつまり、対等は義務ではなく主観である。
それも生きていく上でかなり欠かすことができない主観である。

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