自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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手首を切るとなぜ彼ができるのか?〜定期メルマガから【「変態」といって蔑むのはカンタンです】


結構前に最新の不定期メルマガの原稿上げたんだけど
ブログで告知するヒマ?がなくて・・・。

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鋭く検証しております!!
って、それ検証する必要があるんですかね??

まだの人登録しておいてください。
今回は力作なのでね。
以前のメルマガの内容を今回アップしておきます!

(以下)

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毎回ここで公開するときは過去のメルマガコラムをアップしてます。
今回は11年9月のメルマガコラムからどーぞ。

 工口、とは言っても、
 本気で取り組んだかなりマジメ・・・かつアブノーマルな内容です。
 結局のところ僕がコンサルでやっていたり、自分の考えの根幹になっていること。
 本質。

 とか、ラブについて考えうること。
 大きな愛じゃなくて男女の愛。

 ここに書くことで問いたいのは、本当の愛をないことにしていないか?ということ。
 男女間のね。

 例えば、一番わかりやすいのは
 「結婚している人を好きになってはいけない」というやつ。
 好きになってはいけないって・・・思った瞬間に好きでしょ!?
 何言ってんの、ってハナシ。

 なんで結婚している人を好きになってはいけないのかというと、
 実はよく考えている人などほとんどいなくて、
 「社会的習慣とか法律で決まっている」とか、
 「人に迷惑をかけるとか相手やその他の人を傷つける」とか、
 つまり、自分の内側から湧き出てあふれる大切なものよりも、
 外の世界にあるいろいろな基準・・・大体は社会適応か人間関係によって
 いけないことに「なっている」。

 そしてその外の世界基準に抗えない自分を自分で作って、
 「傷つきたくない」から、そんなことはやりたくない。

 つまり・・・
 純粋に好き→社会条件でまずい→傷つきたくない→やめという図式。
 どんだけ自己中、というハナシ。

 浮気推奨してるんじゃない。
 結婚している方は、自分の現実から逃れる正当化として
 この考え方を使わないでほしい。

 人を愛する気持ちというのは止められないんだってこと。
 相手の立場や~諸々なんかでは、
 その自分の内側のハートにウソをつくことはできない。

 愛してしまったら、精一杯愛する。
 その形はお友達かもしれないし、同士かもしれない。
 僕は例えば、Vanillaさんのことを愛して愛して愛しているのだけど、女性としても、
 その関係はいわゆる浮気とか、体の関係とかにはならない。
 そういうんじゃない。
 でもどこかで通じ合っていて、心と心が通っている感覚が確かにある。
 確かに女性として好きで愛していて、強度も強い。(人としても愛してる)
 それもひとつの愛の形だということ。

 お互いの愛し合っている、それぞれの関係というものがあって、
 それは世間でいうところの「不倫はこういう形」っていう
 ステレオタイプとは違うんだよ。

 人と人は、特に男と女は、それぞれの愛の形をそれぞれの個性のかけ算によって
 作っていくことができるということ。
 浮気しろってことじゃない。最初から世間情報に流されないこと、ということ。

 逆に必要なら浮気しろってこと。

 って、本当は妻子持ちと恋するかどうかが書きたいんじゃなくて、
 こっから本題なんだけども、幼児○愛、同○愛、近親○○、略奪愛ってどうなのか?(最初と次の○には「性」その次は予想してね・・・アメブロに記事はじかれるので。。)
 ということまで踏み込みたいんだよ。

 僕はね。積極的に賛成!推奨!とは言わないけども、ありだと思っている。
 社会的ナントカ論とか、ジェンダーがどーのとかそんなん興味ない。

 僕が言いたいのは純粋な愛に限ってのこと。
 自分のブロックや寂しさやトラウマを解消するために、そういうのを
 正当化の理由として使うのなら論外ということ。
 実際にそういう人も多い。

 Sエムとか、上に書いたキーワードとか、DVDとか、
 性が氾濫して、イメージと想像力の限界まで考えられている。
 いろんな形のエロがあるんだけど、そこから不純物を取り除いて残るのは
 純粋な愛の形の対象が
 たまたま同性だったり、子供だったり、血縁だったり、人妻の心を奪ったときだったり、
 そんなのは生物学的にどーだとか、犯罪だとか、DNA的にとか、倫理がどうのとか、
 そんなこと言ってもムダなんだよ。

 生物学が、犯罪が、DNAが、倫理がムダって言っているんじゃない。
 そういうことを持ち出すことが筋違いと言っている。

 だって愛している気持ちは既に湧いているんでしょう?
 事実、確かに、本当に愛しているのなら、その愛は本物です。

 ただ、愛を理由にして正当化していいとは絶対に思えない。
 例えばもし10歳の子を愛してしまって、
 相手が物事を正しく考えられるかどうかはまた別としても、
 確かに愛し合っているときに、
 僕は体を重ねてもいいと思うけども、
 愛しているということは体を重ねることだから、という正当化は通用しない。

 相手と自分の間で、愛があるからゆっくりじっくり育んで、
 女性としての体ができてから、体を重ねるというのもひとつの愛の形。
 どの愛を選ぶかは、自分たちで決めることができる。

 最近ブログに書いたんだけど、ここでもキーワードになるのは【尊厳】かな。

 石田衣良さんの小説「娼年」で、
 「指を折られると感じる男性」や「オシッコをかけられると感じる女性」
 その他もろもろの性癖を持った人が出てくる。

 昭和初期のいわゆる文学と呼ばれる本にも、
 ヨーロッパから馬の鞭を使って相手をぶち、ろうそくをたらすと書かれた
 小説だってちゃんとある。

 そういう「性癖」。
 自分(たち)と違うから「変態」といって蔑むのはカンタンなことだよ。
 実際にそういう人の中の多くは、自分の心の問題を解消しきれずに、
 安易に性癖を求め、走り、それを満たせば短期的な満足が得られる・・・愛があるって
 いう勘違いがものすごくある。

 でもそんなこと言えば、いわゆるノーマルの人だって同じでしょ?
 そいつらがどこまで愛と工口のことを真剣に考えているんだ?というハナシ。
 いわゆるアブ○ーマルの方が、思い悩み、精一杯人生生きようとしているよ。

 「娼年」で「オシッコ~」の人のハナシを読んで真っ先に感じたのは、
 自分もこの人の生まれ、育ち、環境で、同じように考えて育ったら、
 きっとこの行為が自分にとって素晴らしいことになったんだろうな、ってこと。

 そんなのコントロールできるのか?
 できない・・・部分もちゃんとあるということ。

 そういう行為を含む愛が、それが他人から見てどういう形であれ
 愛が愛なのであれば、それは紛れもなく愛なのだから、
 愛を貫き通せばいい。

 思い通りの形で貫けないかもしれない。でもやればいい。
 思い通りにならないのは、いわゆるノーマルだって一緒。

 ただ、そういう人のほとんどが生きにくいということも事実で、
 例えば僕もSエムを相当掘り下げて勉強?研究?したのだけど、
 そしてその中には大好きなものあれば、大嫌いなものもあるのだけど、
 そういう嗜好や性癖を持っている人が、
 それを「よし」としてくれる相手に巡り会うというのは相当難しいということ。

 もし性癖がブロックから出ているのなら、取ってしまえばいい。

 でも自分自身の愛の形の一部として本当に存在しているのなら、
 その愛を認めてくれて、分かち合える人と出会う必要がある。
 あきらめるんじゃなく、悩むんじゃなく、
 そんな暇があるなら愛を貫く必要がある。

 これは「運命の人と出会う」というぐらい難しい。
 社会的にレッテルを貼られることでもあるので、隠し、相手に言えず、
 そのうち愛の充足を覚えることができずに、しかし自分を責めて
 結局男女関係がうまくいかなくなっていく。苦しむ。

 結局さ、メンタルの部分で僕がコンサルで言っているのと同じことが、
 セクシャリティーの世界でも同じことが言えるということ。

 自分を殺して、自分を捨てて、他人にどう思われるかを気にして
 誰かを犠牲にしてしまう自分のことを考えて、そんな風にしたくないと思って
 自分に言い訳しまくって生きていく・・・
 それじゃあ、自分らしい人生や幸せを手に入れることはできないということ。

 思い込みのフィルターをはずして、
 「ありのままの愛の形は白い光りでどーのこーの」みたいな寝ぼけたハナシじゃなく、
 「自分らしい愛の形はこういう色形をしているんだよ」ということを
 知って、尊重して、自分のものとして愛を貫くこと。

 じゃなきゃ、なんで自分は自分らしさを持って生まれてきたんだよ。
 なんでその愛は目の前にあるんだよ。
 理屈が正しいならあるわけないだろ。(悪魔のお誘いかなんかか?笑わせんな)

 今回書いたことに当てはまる人もいると思う。
 賛成できない人の方が圧倒的に多いかな。別に賛同求めてないし。。。

 ここに書いたことは、絶対に正当化の武器としては使わないでほしい。
 そんなの認めない。

 自分の心に問題があれば取り組むべきだと思うし、
 愛を理由にして何をやっていいとも全く思えない。
 僕が言っているのは、「純粋な」「自分らしい」愛のこと。

 それがあるなら、それしかないなら貫くしかない。
 貫く形も人によって関係によって違う。
 10歳の子と体を重ねるかもしれない。10年間遠いところから見守ることかもしれない。
 どんな形になっても、その愛はちゃんと愛です。

 そして、愛と真摯さがあるとき相容れないことになるのなら、
 人として生まれてきた以上、選択するのはいつも愛の方です。

 想像力が欠落した家畜的生き方をしている奴らの言葉に耳を傾ける必要はない。

 幸運にして、愛を貫き通す相手に巡り会うことができたら、
 一生かけて愛し合う自分として、自分ができることを真摯にやること。
 愛し「合う」ことを真摯にやること。

 それもまた男女の1組によって個性が変わり、やることも、作る形も違う。
 自分「たち」らしく愛の形を作っていくことだと思うのだ。

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