自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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知覚外の知覚03~知覚外の視点で物事を見る


【知覚外の知覚】
 知覚外の知覚01~知覚外の自分を知る
 知覚外の知覚02~知覚外の信頼を持つ
 知覚外の知覚03~知覚外の視点で物事を見る(この記事)
 知覚外の知覚04~知覚外の人間関係を使う
 知覚外の知覚05~「知覚外の知覚」を知覚する

ひとつめの視点「考える」


どんな視点で人がものを見て判断しているかというと
ほとんどが経験に頼っているのだが、

ではその経験はどんな視点によってもたらされたのかというと
考える
感じる
という二大要素にほとんどを頼っている。

考えるというのは、ほとんどの場合で論理的思考になる。
論理的思考と言うのは、乱暴に言えば
「ああすれば、こうなる」という筋を探す働きかけで
原因と結果、プロセスと成果が明確な場合に役立つ。

ところが、
それで測ることができないものが世の中には多いので
考えの使い方にハマってしまい自分や物事を見失うことはよくある。

思考という知覚の範囲内でしか物事が見られなくなる。

ふたつめの視点「感じる」


思考的限界は結構誰でも陥ることなので
そこでよく言われるのが
「考えるな、感じろ」というやつ。

感じるというほとんどのものが言語化できない曖昧なものか
五感を使って「そこに何かがある」と認識するものになる。

考えることが左脳的だとすれば、
感じることは右脳的になるし
考えることが頭を使うのなら
感じることは感覚期間を使う。

感じることを採用すると知覚が広がる。
これまで筋によっては説明できなかったことが
「なんだかわからないが、確実にそこにある」
と言えるようになる。

そして感じる世界を広げ、最後には溺れる。

感じることには限界がある。
知覚できるものしか感じることができない。
しかも、
どこかの感覚器官がニブければ
自分だけが感じることができない、ということもあり得る。

「考える」も「感じる」も限界がある


考える力をさらに伸ばすこと、
感じる力を自分のものとして使いこなせること。
どちらも重要でやるべきことだと思う。

だがそれは「知覚できる自分を作ろう」と言っている。

ということは、知覚できない世界はないという前提がある。

この前提があるので、
考え、感じることができる意外のことはないことになる。

考えることも、感じることも
外の世界の情報を必要とする。

例えば別次元が三次元のねじれの裏にある、という考え方は
それを聞いたことがあるから考えることができる。
よくわからない違和感をひとつの情報として感じるから、
やめておこうと判断できる。

情報がなければ考えることも感じることもできない。

言い方を換えれば、知覚がなければ思考と感覚は働かない。
だが知覚の外にも世界はある。

知覚は広がり深まると、逆に限定される


視点は
知覚外を含んで持つ人と、
知覚内を鍛え、増やし、磨いただけの人では
明らかに差がつく。

知覚外を持つ人の方が優れた視点を持つ。

追求は「広める」「深める」の両方によって進めるが
それをやればやるほど、情報は増えるが枠は狭くなる。
「確実に言える正しいことはこういうことだ!」が固まるので
知覚は結局限定される。

どんなに追求して本質や真実を見出しても
「そもそもそれが根本から無効な可能性がある」
という見方ができると
(知覚されていないものが知覚されたら無効になる場合がある)
知覚が限定されても視点は限定されない。

正しいものを捨てる


人よりも多く考え、鋭く感じるようにして
誰も到達できていない頂きに登ったとしても
それ自体がさまざまな予想できない(まだ知覚されていない)
何かしらの理由によって根本的に間違っていることが発覚する可能性がある。

これをいつも視点の中に組み込む。
正しいと確実に言える物事を定期的に捨てる。

やり直す。

間違っている場合人は、正しい方向にむけてやり直す。
だが、知覚外の視点を持つ場合は正しいことを正しいからやり直す。

根本的に無意味であるとしたらなぜか?を問う。

知覚外を視点に組み込む


視点は多角的、多重的、検証の繰り返し、実験、証拠、証明、
では物事は明らかにならない。
今ある情報(知覚)の中で正しいと思える材料を探しているに過ぎない。

だから例えば、病気は治すものではなく
体に覚えさせ、耐久させ、進化させるための材料だ
という根本的な見方の違いが正しいかもしれないし、

物理学は全て、たまたま一時期
そういう証明される流れになっているだけかもしれない。

疑いを持つのではない。
知覚外を視点に組み込む、ということだ。

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