自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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終幕を引く


このブログでの最終コラムです。1100を超えるコラムを書いてきて感慨深く・・・・いや、別にないな。。。
最終回にふさわしい内容にしてみたいと思います。

終幕がある。終幕が引かれれば観客か俳優かは別としてしばらく感慨深い。
そして忘れられる。そしてたまに思い出し、また忘れる。

人の死がそれに近い。

終幕は物語のように終わろうと思って引かれる場合と
寿命のように自然に、勝手に引かれる場合がある。

どちらの場合にせよ、物事は必ず終わる。

日常の中で人は終幕を引きまくり、たとえば1日を締めくくり
また朝が来て新しい1日にトライする・・・というようになっている。

終わりは新鮮ではない。
毎日の退屈なできごとでしかない。
毎日何度も飽きるほど終わりが来る。

その終わりのほとんどが無意識で行われていて
つまり、自然に勝手に終幕が引かれる。

自分で終わると決めるものには意識が使われる。

自分で終わることができる物事の多くは
自分ではじめ、自分で作り上げてきたものであることが多い。
(たとえ会社勤めでも)

終われない事情のほとんどは、
別の角度からの精神的プレッシャーのことも少なくないが
そのほとんどは「これまでうまくやってきた」ことにある。

つまり、強みを使うなりして成果を上げ、実績を積み重ねた。

そういうものにこそ、
終幕を引く必要があり、終わるために意識の力を使う必要がある。

うまくいっているものを終わらすには勇気がいる。
絶頂期に終わる必要はない。
絶頂期を少し過ぎたまだ人気のある時期に終わる。

ミステリー小説やお笑いのようにオチが決まっていて
その流れで終わるのではない。
それは意識の終わり方ではなく、自然な終わり方になる。

人や自分以外の誰かの反応は、自分の反応よりも遅い。

たとえば、デザイナーが最新でデザインした服が市場に出るのは
服をデザインしてからかなり後になる。

自分が自分の持てるものを全て出し、
その分野や物事に置いて十分な実力を全て発揮したら
その物事には終幕を引く。

周囲は、まだまだ絶頂の現役なのに退いたように見えるが
そこには「遅れ」があるので
自分にとっては全てをやり切ったところで全てを終わらせる。

終わることにメリットはない。
終われば、はじまる、なんていうことはない。

別々の物事をくっつけてはならない。

終わることは、終わるために終わる。
誰の理解も必要ない。
感情的にどうであるかも関係がない。
自分が必要十分の最高値までやれば終わる。
お腹いっぱいになったら食事を止めるのと変わらない。

終幕を引くというのは、ひとつの力であり、ひとつのセンスになる。

センスがない者は引きずる。
引きずるものはどんどん古くなる。陳腐化する。
飽きられ、軽んじられる。
だから終わるのではないが、ただそうなる。

自分の中の終わりがどのようなものか知っている者が終わることができる。

何がどうなれば終わるのか、
終わりに至るまでの必要充分な最高値が何か?
それを測るための感覚が身に付いているか。

そういう自分を知っている者が終わることができる。

意識を使い終わることができると、
無意識での終わりにも聡くなる。
受け入れるキャパが広がり、動じなくなる。
オマケとして精神力が鍛えられる。

人は終わらなければならない。
人が自然にはじまったり、意識的にはじまるのと同じように
自然に終わり、そして意識的に終幕を引かなければならない。

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