自分の強みを明らかにする松原靖樹のエスモーズ理論

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表面と一部を見て「愛がない」と断言できるほど愛を知っているんですか?というハナシ

司馬遼太郎の「峠」というちと悲しい本に、
残念なことに怒鳴らなければ分からない連中がいるというようなことが書かれている。

残念なことは、怒鳴るだけではなく
優しくすると図に乗る人や、
誠実に接すると調子をこく人や、
ちゃんとやっていると損をさせても良いという人が
必ずいる、という事実。

そういう一面は、はっきりと誰にでもあるのに、
その一部分を見て引き寄せたとか、理屈をつけたがったり
例えば怒鳴っているところだけを切り出して
愛がないと断言したりする人も世の中には一定数ちゃんといる。

物事の一部を見て、バックグランドも、全体像も、引き寄せや波動の原理もちゃんと知らない人が
そんな便利な言葉を使って言い切れるほど偉いんか?ということ。

確かに人は、見たいように聞きたいようにしか物事をとらえない。
 「見たいもの・聞きたいこと」の枠を超えること” class=”replaced_link replaced_link_from_ym11″>「見たいもの・聞きたいこと」の枠を超えること

ならせめて、偏狭で限定的な自分の知覚で物事など断言できないと知り、
知った風な口をきくのをやめるのが人としてできることでしょう。

愛ってひとつなのかよ?形決まってんの?
決まってるわけがない。
大体感覚的に愛はこういうもの。素晴らしいもの。光っぽいもの、優しいもの、みたいな理解がされている。

それも確かにそうなのだろうけども、
無限の愛の中で、僕も含めて自分が知っている範囲なんてちっぽけのクズみたいなもので
それはつまり自分の知覚と経験の範囲内での愛や、
情報として「愛というのはね、こういうものなんだよ」に流された愛。

いや、実のところ僕個人がそういう典型的な愛基準の押し付けにうんざりしている。

人間として両脳があるのだから、
「受け入れて愛すればいいのです」というおめでたい方はもっと左脳的に考えたり分析した方がいいよ。
それで上手くいくのなら、多分人間って1000年単位の昔にきっとうまくいってるな。

「愛の定義はどうのこうの」なお堅い方は、もっと右脳的に感じた方がいい。
そもそも自分の知覚の範囲は狭いので、愛なんていう大きなものを考えだけで理解するのが無理。

特に僕がオススメしたいのは左脳的な愛の理解
理解できる分野がちゃんとあるのに、そういうことをする人はもう愛がない~みたいな
気軽で無責任な考え方はやめてほしいなぁ。
感じることも同じで、自分がどこで愛を受けて出しているのか?本気で分かっている人がどのくらいいる?
例えば厳しさを愛で出すときにそれを自覚して、胸はって見届けられる人ってどのくらいいるよ?

なんか、愛のハナシなのか態度のハナシなのかよくわからなくなってきた。
つまりは、愛ある態度のハナシ・・・か?
ま、まとまりが良いのでそういうことにしよう。

愛ある態度というのは、自分の愛の未熟さ、それから自分の愛が発揮できるところの素晴らしさ
純粋に良くつかんで
未熟は控えめに、まだまだ注目して受け止める、
発揮できているところはもっと集中して打ち出していく、
というそういうことなんじゃないかな、と思うのだ。

そして、態度として
その愛を阻害し誹謗し、愛がないと断言し、おとしめる@4の声は耳に届けないこと。
限定的に言えることは、愛を武器として人の気持ちを攻撃する人に愛はありません。

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