11.産業革命がサービスを変えた

1807年にフルトンにより蒸気船が、1825年スティーブンソンにより蒸気機関車が発明された。
この2つのできごとがサービスを変えた。

蒸気機関の発明、木炭から石炭の利用、製鉄技術の促進の3つが、産業を農業から工業へと移らせた。
政治はこれを受けて、国力の増強に力を入れはじめた。
これがイギリスから興った、産業革命である。

しかし当時、サービスが変化したことに気がついた人はほとんどいなかった。
人々はもっと他の重要な物事、例えば蒸気機関と石炭による生産力の向上や工業の促進、原材料を輸入するための植民地の確保と維持に関心を持っていた。

仮にサービスの変化に気がついた人がいたとしても、その重要性は理解されていなかっただろう。
そもそも理解すること自体が困難だった。

この時代に、その重要性を感覚的にしろ理解していたごく少数の人々は、サービスを

ことに気がついた。
なぜなら、国策は重工業と植民地という大きな目標に向いていたので、足元の小さなサービスを満たすことに力を入れなかったからだ。
さらに、工業化が進むにつれて様々なアイディアとアイディアの利用方法が生まれ、道路や上下水道を整備する

こうしてサービス業の先駆けとなったものが生まれた。
それは商売を通じてサービスが提供されるというもので、産業の最前線を走る工業に直接関係するものではなかった。
これもサービスの変化が見逃される理由のひとつになった。

炭鉱、紡績業、製鉄業、重工業が産業として注目される中で、時代の変化と共に商売が提供するようになった最初のサービスは

である。

それまで基本的に公共機関によって整備されていたインフラが、企業の手によって整備されるようになった。
しかし公共サービスとは違って、その目的はインフラの整備ではなく、収益事業として利益を上げることだった。

オーストリアにはじめての鉄道が敷かれたとき、それを敷いたのは国ではなくロスチャイルド家だった。

本家のイギリスでは、リバプール・マンチェスター間に鉄道を敷いた世界初の鉄道会社が、年率9%以上の高配当を、毎年株主に払うことができるほど盛況し、各都市間、街と街に民間の鉄道会社が興った。
イギリス全土における一社あたりの平均鉄道距離は、24キロという短さであったというから、鉄道会社の乱立ぶりがわかる。

ヨーロッパの鉄道は、その誕生から商売を通じてサービスが提供された。
彼らの目的が収益であったにしろ、インフラの整備、移動とそれに伴うコストの削減、スピード化という社会システムを提供したという意味で、鉄道は完全に公共サービスと同じ意味を持っていた。

これが産業革命時に起こった、サービスのひとつ目の変化である。鉄道こそがサービスと商売が結びつくきっかけとなった事件だった。

サービスが商売を通じて提供されるようになったのは、多くの発明が社会に取り入られ、その応用が不可欠になったからである。
発明の応用を促進して国力を高め、社会を発展させるには、もはや国が政策だけでサービスを決め、提供するだけでは追いつかない状態になっていた。

民間の企業や個人が、収益性という事業の利益とサービスを結びつけることで、サービス提供を広める役を受けたのは必然だったと考えられる。

【余談:日本の鉄道】

ヨーロッパの鉄道のほとんどが民間によって敷設されて発展してきたのとは異なり、日本では国によって鉄道が整備された。

サービスの提供の最初から提供者が異なる理由は、資本力の差にある。
当時の国力は桁違いに違った。
日本では、国しか鉄道の資本を提供することができなかった。

当時のヨーロッパ列強と日本にどのくらいの資本力の差があるかというと、少し時代を経て1912年に処女航海で海底に沈んだタイタニック号の建造費は、同じ年の、日本の国家予算の約3倍に相当している。
船一隻を造ると、日本が3つでき上がる勘定になる。
それほど国力に差があった。

日本には、技術を輸入するコネクションのある企業も、資本のある企業もなかった。
それができるのは国だけで、事実国がそれを行った。
この意味で、日本の鉄道は最初から公共サービスだった。

その後、対ロシアを意識して軍備に組み込まれる。

古代ローマが軍備のために敷いた道路を民間も利用できるようにしたこととは逆に、また、ヨーロッパの鉄道開設と同様に、日本の鉄道は民間に解放する公共サービスからはじまった。
軍事利用が視野に入っていたにしても、新橋―横浜間の鉄道架設は実際に市民に開放されることからはじまった。

つまり、最初の提供者が企業であれ公共であれ、民間利用が目的であれ軍事目的であれ、鉄道は日本でも社会システムとしての公共サービスとしてはじまったことは間違いない。

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10.全ての道はローマに続く

戦争の奴隷が家内作業を行う社会システムのサービスが第一期で、古代エジプトの時代から完全な公共サービスとしての第二期に移りはじめた。
現在でも、アメリカ大統領の警護隊をシークレットサービスという呼び名で呼ぶことからも、公共サービスがまさにサービスであることを読み取ることができる。

古代ローマでは、完全に公共サービスがシステム化されていて、ローマ市民も当然の権利としてサービスを利用することができた。

「全ての道はローマに続く」という有名な言葉がある。
この言葉は、古代ローマの反映を一言で表したものだが、その言葉通り驚くべきほど道路網が整備されていた。
今から二千年以上も前に敷設された道路で、今の時代でも使われているものがある。
この道路網は、明治の日本の鉄道と同じで軍事に目的があった。

西アジアや北アフリカ、現フランスのガリア、スペインなどで、有事の際速やかに軍隊を派遣することができるように、道路網が整備され延長されていた。
軍隊が道路を使用しない平時には、一般市民、とりわけ商人がこのインフラを利用することができた。
つまり道路網整備は最初から市民のためにされたのではなく、国防という国益のために整備されていた。

軍隊は、古くから存在する公共サービスのひとつである。

古代ローマ時代のローマの軍隊は市民兵で、ローマ市民が国を守るために軍人になった。
現代では当たり前のように聞こえるかもしれないけれども、この時期ローマと戦ったアフリカ北岸のカルタゴ兵は主に傭兵だった。
傭兵という職業軍人を雇い、戦争を行うことは当時珍しいことではなく、この常識は中世まで続く。

古代ローマの市民兵は、そのシステムや役割を見ると、それが公共サービスであることがわかる。
現在のほとんどの国が持つ軍隊とほぼ同じ位置づけにある。

一方の職業軍人である傭兵は、サービスとして社会に提供されるものではなく、商売として活動する。
その傭兵の意味を指す英語(mercenary)の語源はラテン語の”merere”で、「利益を得る」という意味がある。
傭兵が市民兵と同じ軍隊でありながら、より商売であることが読み取れる。
戦うという技術と引き換えに、利益を得ることを前提にしていたといえる。

言葉でサービスと商売の違いがわかる。

上下水道の発達も同じように、国益のために公共サービスが不備を解消するために発達した。
19世紀末のヨーロッパ都市部の衛生は田舎に比べて、いや、比べることができないほど劣悪だった。
ロンドンでは汚物が窓から道に投げて捨てられ、フランスではベルサイユ宮殿ですら女性がカーテンの脇で用を足すこともあった。
このような衛生環境の下では疫病が流行る。

この問題を根本的に解決したのが下水のシステムであり、公共がこのシステムを形作った。下水道の普及率の上昇に反比例して、疫病発生率は低下した。

身近な公共事業を想像してみるとわかりやすい。
道路の敷設や橋の架設、治水、上下水道の整備などは昔から続く公共のサービスである。
事業ばかりではない。
国防を預かる軍隊、内政の安定を行う警察の組織化と運営、税の徴収も同様に長い歴史がある。

これらの公共サービスは、たとえば消費者やお客のような誰か特定の「人」に対して提供されたものではなかった。
目的は国力の増大、社会の整備にあった。
社会のシステムとして提供されてきた。

サービスは生まれながらにターゲットが「社会」であって、直接的な意味での「人」ではなかった。
よってサービスの評価基準は人々の満足感ではなく、長い間ずっと社会貢献度で測られてきた。

同じように、収益性でもサービスの価値は測られなかった。
公共事業を行うといくらの利益になるかということで、サービスが決定されたことはなかった。
やはり、社会貢献度、社会のニーズとしての優先順位の高いものがサービスという形として社会に提供されてきた。

道路の敷設や上下水道の整備で、人々が「サービスが良い」「ホスピタリティに溢れている」と評価することはない。
または「儲からないのだからやめろ」という声も上がることもない。

そのような評価、または悪評があったとしても、それは公共サービスにとって参考にも問題にもならない。
サービスは本質的に社会に直接関わるものであり、個人と、個人の利益に直接関わるものと限ったものではないからである。

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09.サービスは奴隷制から生まれた?

サービスの歴史を調べてみると、とても興味深いことがいろいろとわかる。
たとえば、日本語にはサービスに当たる和語の単語がない。
このことだけを見ても、サービスは西洋で発達し、東洋(少なくとも日本)では発達しなかったということが読み取れる。

サービスの3つの本質も、徐々に形作られてきたことがわかる。

サービス(service)の語源を探ってみると興味深いことがいくつかわかる。

サービスの語源は、ラテン語の”servire”で、「仕える」「召使」の意味を持つ。
実はサービスとして、この「セルヴィーレ」の元となる実際のサービスがあった。
それが奴隷である。

奴隷が「仕える」「召使として奉仕する」というのが、語源的に最も古いサービスの原型で、奴隷のシステムは最初からサービスの考え方ではじまった。
つまり「仕える」「召使」の意味そのものだった。

古代ギリシャの有名人、哲学者アリストテレスは「奴隷は生きた財産である。・・・奴隷と家畜の用途には大差がない。なぜなら両方とも肉体によって人生に奉仕するものだから・・・」と言っている。
現代の感覚で聞くと腹立たしさを覚えるかもしれないけれども、この発言で、社会通念的に奴隷が(家畜同様に)システム化されていることがわかる。
「仕える」という意味でのサービスの事実が、記録上明らかになったおそらくもっともはじめではないかと思われる。

最初の奴隷は差別や貧富の差から生まれたのではなく、戦争の捕虜だった。
紀元前数千年ごろの話で、詳しい時期はよくわかっていない。

捕虜を牢屋に入れて食事を与えるだけでは、社会的にコストがかかってしまう。
そこで労働に従事させ、主人に仕えさせるようルール化したのが奴隷のはじまりである。
この労働が体系化されて家内作業を行うようになり、奴隷制度という社会のシステムになった。

ちなみにこの頃の奴隷は住居も食事も与えられ、逃亡さえしなければある程度の自由は許されていた。

一度社会のシステムとなると、奴隷がいなくては社会が機能しなくなる。
この制度としての労働力が、最も古典的な「サービス」となった。
最も古いサービスの時代から、既にサービスが社会システムであり、社会に貢献していたことがわかる。

奴隷は家内作業に従事していたものが、古代エジプトの頃から強制労働に駆り出されるようになる。
それまで戦勝国の市民の家庭で働いていた奴隷が、この頃から一気に政治的な労働をすることになった。
たとえばピラミッドの建設には多くの奴隷の労働があったことはよく知られている。

この、労働力を使う「場所」の変更が、そのままサービスの特徴の変更となった。
奴隷が行うという意味では何も変わらないものの、より直接的に社会を構成するようになった。
そして一度労働力として奴隷が使われるようになると、サービスは公共事業を行うためのものという特徴を持つようになる。
そして長い年月をかけて、社会的な公共事業(つまり贅沢な王の墓などではなく、道路や貨幣など)こそがサービスそのものである時期が訪れる。
奴隷の労働力による社会システムををサービスの第一期とするなら、サービスの第二期が訪れようとしていた。

ちなみに、紀元前の東洋(主に古代中国)では、奴隷は生け贄と考えられていたこともあるし、戦勝国の将軍が食料を消費しないために数十万人を生き埋めにしたケースなどもある。
つまりサービスとして社会のシステムにはならなかった。
奴隷は人ではなく、どちらかというともてあます存在だったようだ。

古代中国の文献を読んでいると、(戦争捕虜になっても)恨みを忘れず、義を果たすというようなケースも多く、システムにしようにもうまく機能しないことがあったのかもしれない。
さらに奴隷や料理人(地位が低かった)から出世したという例もあるので、上下間の移動も不可能ではなかったことも、社会システムとして奴隷制が定着しなかったということもあるのではないだろうか。

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08.コンセプトを反映する手段

サービスとして何を提供するかは、100%サービス提供者によって決められる。
それも、そのサービスが生まれる最も初期の段階の、卓越した着眼点を持った1人か2人によって決められる。
よく誤解されるように、顧客やマーケットによって決められることはない。必ずサービス提供者が一方的に決める。

サービス提供者が何を提供するかを決めるとき、そこには必ずそれを決める人の

がある。
その想いとこだわりは、その人が過去に経験したことから生まれる。

多くの場合、それは現状のサービスに対する不満であって、その不満を解消する方法を想いやこだわりとして表現する。
これが最も初期のコンセプトになる。

この初期の状態のコンセプトだけで「提供するサービス」を決めてしまうと、失敗する確率が高い。
なぜならそれは、個人の単なる不満解消行為でしかないからである。

しかし、この最初のコンセプトを生み出す蓄積された経験は、提供するサービスを決める前提として必要ではある。
想いだけではサービスを生み出すことはできなくても、

画像3

それがサービスのコンセプトになる。

サービスは基準となるコンセプトを必要とする。
コンセプトはサービスとして提供するものを決め、思い込みやこだわりを反映するための

になる。
サービスを作るとき、何もかもがコンセプトという設計図に沿って作られているかを基準にする。

サービスが作られると、どのような成果を得ようとするのかを全体的に理解するために必要な

になる。
サービス活動はコンセプトによって進められる。目標や提供方法など、新しく決めることはコンセプトによって決められる。

そして理想を反映する場合の

となるべきものでもある。
何を行い、何を止めるのか、誰と一緒にやるのか、お金をどのように使うのかなど、全てコンセプトを中心にして測り、判断するようになる。

動機と設計図としての内容が具体的であればあるほど、提供するサービスがうまくいく可能性が高まる。
ただし、完全に機能するかどうかを決定するものは最終的に「社会的不備の解消」との一致を確認しなければならない。
既に決まったサービスの視点で見れば「社会の不備を解消するために必要な、根本的な指針」がコンセプトになる。

このような視点、知識、動機、実行力は誰もが持ち合わせているものではない。
だから、不備に気がつくことができ、それを良い方向に動かそうとし、コンセプトを定め、正しいスキルによって実行することができるのは、最初の1人か2人ということになる。

お客の声を聞くことや、マーケットの観察は行うかもしれない。
けれどもそれは補助作業であって、そのことがサービスを決めるわけではない。
それは決定前の制約要因であって、決定要因にはならない。

コンセプトが固まると、何をどのように、なぜ、提供するかが決まる。

単なる物を提供する場合もあれば、知識を提供する場合もある。
一度で完結することもあれば、継続して提供されることもある。
文具を配送するサービスのように「翌日」「ペン一本から」「配送してくれる」という複合的な意味を持って提供されることもある。

どのような形であるにせよ、一度提供すると決めたものは必ず提供する、そして提供するものはコンセプトによって決定される。
これがサービスの原型となる。

そしてこのサービスの形は、サービス提供者の視点で見たとき

となる。

サービス提供者にとってのサービスとは、コンセプトを成果に反映させるための手段にすぎない。
その手段は同時に、社会的な理想や夢を実現するための唯一の方法になる。

お客に感動や満足を与えることをコンセプトにしているとしても、それはコンセプトを反映する作業の一部分でしかなく、お客に対する感動や満足が目的になるわけではない。

同様にサービス提供者からすれば、社会の不備を解消することもサービスの目的にはならない。
サービス提供する事業者にとっては、

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07.提供すると決めた約束を守る

「新鮮な果物を提供する」というサービスを行っている八百屋があるとする。
その八百屋で購入したグレープフルーツが腐っていたとき、私たちの感覚ではお店にその事実を告げることで新鮮なグレープフルーツと交換してもらおうとする。
これが実はサービスの特徴である。

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という考え方はサービスの概念である。
一方商売では「販売する」という考え方で、「販売する」という考え方の根元には

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の考え方がある。
販売というのは、物と金銭を交換しましょうという意味がある。
「交換」は相互の関係で、お互いが何かを差し出し、お互いが納得することで交換が成立する。

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元々は山の人が野菜を、海の人が魚を持ち寄ったのだろう。
ジャガイモ十個に対してイワシなら五匹、ブリなら一匹という、それぞれの基準を話し合いで決め守ったはずである。
お互いが納得し、お互いが公平だというやり取りの下で交換は成り立つ。

それを後になってから「やっぱりジャガイモ十個は多かった」「ブリは半身にするべきだった」などと言うことは、お互いの信頼関係を崩してしまうことになる。
つまり商売では、取引後に交換条件を云々することは元々許されていなかった。
「結果」は条件に納得した双方の自己責任だったといえる。

こうして考えてみると、商売ではグレープフルーツが腐っていたとしても、その責任は購入した側(お金で交換した人)にあるということになる。

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よく確認しなかったか、購入後の保管状態が悪かったかは重要ではない。
交換の公正な取引がなされたかどうか、公正な条件であったかどうかということが重要になる。
その条件に一致していれば、納得して交換したのだから腐っていたかどうかは問題にはならない。

「そんなバカな」と思う人もいるかもしれない。
しかしこの考え方は、現在でも外国ではよく見られる。
都市部のスーパーでさえ十分に起こるし、珍しいことではない。
つまり、腐ったグレープフルーツを新鮮なグレープフルーツに交換してくれるということは、なかなかないことなのである。

あるいは契約書を交わす関係を思い浮かべるといい。
一度契約書を交わした以上、その契約は契約内容によって履行される。
後になって不公平だと訴えても正当性は認められない。

反対に、サービスは「提供」という考え方をする。
「提供」は「交換」と違って、

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である。

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提供者は必ず提供し、お客はそれを受けるというお互いの関係にある。
提供すると決めたものが確実に提供されることが、提供者の責任ということになる。
だからグレープフルーツが腐っていた場合、新しいグレープフルーツを提供するかどうかはサービスのコンセプトによって変わる。

古かろうが新しかろうが「果物を提供する」というコンセプトのサービスを行っているのであれば、おそらく新しいグレープフルーツには交換してもらえない。
もう既に果物を提供したからである。

しかし「新鮮な果物を提供する」というコンセプトでサービスを行っている場合は、新しいグレープフルーツを提供し直す。
新鮮なグレープフルーツがお客の手に入るまで提供し続けるのが、サービスの責任になる。

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取引の条件やグレープフルーツを利用者が確認したかどうか、保管状態はどうであったかなどは重要ではない。
結果としての新鮮なグレープフルーツの提供だけが、サービスの守られるべき約束になる。
新鮮なグレープフルーツを提供すると約束したのだから、その約束は何があっても守られなくてはならない。

これが「提供すると決めたものを提供する」「提供すると決めた約束を守る」正しいサービスで、サービスの責任である。
商売上この行為は、利益の圧迫であり損失となる。

ちなみに「果物を提供する」と「新鮮な果物を提供する」の、どちらのサービスが良いかを比較することはできない。
お客は利用者として、どちらがより自分に合っているのかを選ぶことしかできない。
お客視点として、どちらが約束を守っているのかということを判断し、どちらを利用するかを選べばいいのであって、良いか悪いかを決めることはできない。

このように商売の視点とサービスの視点が異なる場合がある。

2つはよく同じものだと考えられるが、実際には全く別々の物事であり、役割も目的も異なる。
どうしてこのようなことが起こるのかは歴史について触れる時に解説するけれども、19世紀半ばから商売にサービスが組み込まれるようになったことで、両者はよく混同されるようになった。

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この混同のもつれた糸を解きほぐしたとき、真っ先にその姿を見せるのが「提供すると決めた約束を守る」というサービスのあるべき特徴である。
では「提供すると決めたもの」はどのようにして決まるのか。
これが3つ目の本質「サービス提供者のコンセプトを反映する手段」である。

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06.社会貢献するシステム

「社会の不備を解消することで社会貢献するシステム」というのは、サービスは

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という前提がある。
対象が人基準ではなく、社会基準になる。
そしてその不備の解消は、顧客満足や売上げによる評価ではなく、社会に対する貢献度によって評価される。

サービスはそれが生まれたはるか昔からずっと、社会の不備を解消することで社会貢献するシステムだった。
社会の不備を解消するだけのものではなく、単なる社会貢献のシステムでもなかった。
社会の不備を解消する社会的なシステムだった。
現代のサービスも、不備を解消するということが活動の基礎になる。

たとえば、文房具などの消耗品をネットで注文することで、翌日にペン一本から届けてくれるサービスがある。
これは入手したい側のお客にとっては、「明日」「ペン一本が」「足を運ばなくても手に入る」という3点セットの条件を満たしてくれるものである。

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このサービスが生まれる以前は、その状態を満たすべきであったのに、実際には満たされていなかったという不備があったとことになる。

レジャーなどの娯楽産業にも同じことがいえる。
人びとは、デートや家族で楽しい思い出を作るために遊園地に行く。
これは不備を解消しているのではなく、満足感などの新しいもの(気持ちなど)を生み出しているようにも思える。
しかし、世の中から全ての遊園地が消えてしまうところを想像してみてほしい。
そうなったときにはじめて、不備が浮かび上がってくることがわかる。
巨大な敷地で、様々な乗り物によって興奮や擬似の恐怖体験を味わうことができなくなったとしたら、その状態は現代社会の大きな不備になってしまう。

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「サービスとは何か?」を考えるときは、「社会の不備を解消するもの」というスタートラインを知っておいたほうがいい。

逆に、顧客満足や不満足の解消を基準にしてしまうと、サービスの正しい判断することが難しくなる。
なぜなら、各個人の感情は完全に解決したり、満たしたりすることができないからで、人によって結論や意見が異なるものは目的にできないからである。

しかし、だからといって、社会システムの全てがサービスであるわけではない。
たとえば、法と法律は社会のシステムだがサービスではない。
ただし検察、裁判、六法全書の刷新などは全てサービスである。
また、暦は社会のシステムである。
1年は365日、1週間は7日、1日は24時間と決まっている。このシステムはサービスではない。
しかし、グリニッジを標準時として各国で時間と時差を取り決めそれを守ること、正しい時間を伝えること、時計を流通させることはサービスである。

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法、法律、暦は社会基盤となるルールである。
長さの単位、気象の単位、通貨、金融マーケットなども同様にサービスではない社会システムである。
それは基準でありルールであり、だからこそ自分では活動しないという特徴がある。

このような基準によって、継続的に運営され活動するものがサービスである。

検察、裁判、六法全書の刷新、時間を伝えること、時計の流通はサービスで、他にも定規の販売、地図の製図と販売、天気予報のお知らせ、通貨の両替、金融商品の販売などもサービスである。

ルールや基準だけでは物事は動かず進まない。
それを動かし、実際に不備を解消することで活動が継続していくものがサービスの特徴である。

社会システムとしてのサービスの評価は、貢献度で測る。
定量的に測るのではなく、

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に測る。
貢献度が高いほど、社会にとって必要なほど、サービスは長生きする。
たとえば弁護士は、古代ローマの時代既に存在していた。しかし同じように発達した文明を持っていた古代中国では存在していなかった。
長い歴史を経て弁護士は社会的により重要となり、より深く広く貢献するようになったことで発展し、現在も活動している。

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東アジアから西ヨーロッパまで数千年に渡って存在した、宦官という職業は現代では消えてしまった。
宦官は、男根を切り落とすことで王の後宮の管理運営を行ったり、時には政治に参入したりする役職の、いわゆる政治家である。
日本ではついに存在しなかったためになじみが薄いが、世界史の中では西洋でも東洋でも度々顔を見せる。
この職業が消えてしまったのは、社会システムとしての貢献度がなくなっってしまったからに他ならない。

職業に限らず、業界という視点もある。
たとえば建築業は、古代からほぼどの国でも存在した。
一企業が長い年月を生き残ることは難しいかもしれないが、現存する世界最古の企業が、建築を扱い(口伝であるにしても)西暦589年に事業を開始し、現在も存続する金剛組という会社であることは意外に知られていない。
サービス存続には社会貢献度が影響をあたえるという実例だといえる。

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100年前であれば紡績が社会に対して大きな貢献を果たした。
現在のような株式市場があったとしたら、紡績関連業の株価は右肩上がりに上がったに違いない。
しかし現在では、紡績業が100年前のような姿で社会貢献していると考える人はいない。
同じことは炭鉱にも製鉄も当てはまる。

しかしどの産業も経済的な貢献が低下しながら、現在も社会に大きく貢献はしている。
炭鉱を除けば、実は生産量も100年前よりはるかに増加している。
しかし、現代社会全体への貢献度は下がっている。
炭鉱に至っては、もはや現代で社会貢献することはほとんどない。

企業がサービスを提供するとき、その産業が社会に貢献し続けられるかどうかによって、企業の寿命に大きな影響を与える。
事業の貢献度はもちろん大切だが、産業全体の貢献度により大きく依存する。
金剛組が異例にしても長寿を誇り、現在の日本で建築会社が大小目白押しで存在するのは、建築業がいつの時代も必要とされるサービスであることと密接に関係がある。

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誤解してはいけないのは、これらのサービスが儲かる、大企業になる、とは必ずしも言えないということにある。

儲かる、大企業になるというのは商売上の問題であり課題である。
サービスの評価はあくまで貢献度で判断し、それを見分けるための特徴として業界、職業が発展・発達する可能性が高い場合は、寿命が長い傾向にあるということである。

逆に、サービスの評価は収益性や顧客満足で決まるものではないともいえる。

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05.サービスの本質

サービスの本質、つまり「サービスとは本当は何か?」の答えは3つある。
3つでサービスの全体を説明することができる。

サービスは社会の中でしか活動することができない。
それでいて、サービスは逆に社会を形作っているパーツの一部にもなっている。
社会はサービスによって、サービスは社会の中で活動するという相互関係にある。

だから、サービスは経済活動や政治活動で生まれたり、動いたりするものではない。
経済活動に直接は関わらない公共のサービスやNPOなどもあれば、資本主義でも共産主義でもサービスはちゃんと存在している。

社会の中でサービスは無数の歯車のようなもので、それぞれがうまくかみ合って、それぞれと関係を持ちながら動いている。
「私もサービスを行いたいな」と考えたとしたら、社会活動の歯車の中でうまく回りそうなものを提供する。

だから、提供されるサービスは、提供者によって一方的に決められる。
お客の声を頭に入れることがあるかもしれないが、最終的に「これ」と決めたものは、必ず提供者が一方的に決めるようになっている。
そしてそれがうまく社会の不備解消に役立てば長続きするし、役立たなければ歯車として機能しなくなって消え去ってしまう。

提供するサービスを何にするか決めるとき、それは一方的に決められるのだから決める人の想いが反映されていないと、いくら社会の不備を解消しても長続きしない。
長続きさせようという気持ちにならない。

だから、サービスには提供者のコンセプトが不可欠で、一度「これをサービスとして提供する」と決めてしまったら、あとはコンセプトを現実化するためだけにサービスを提供し続けることになる。
つまりいくら社会に貢献するといっても、提供者にとっては自分のコンセプトを現実のものにする作業がサービスだということになる。

社会貢献するシステム、確実に提供すること、コンセプトを反映する手段の3つは、全てがそろってサービスの条件になる。
そして、それぞれを分解して見てみると、それぞれが働く方向性の違いが見えてくる。
社会貢献するシステムとしてサービスを見てみると、サービスは

ことがわかる。
評価されるということはつまり、他から客観的に見てどうなのか、ということになる。
だから、社会的な不備の解消をしないサービスは、人びとに必要とされないので早々と消えてしまう。

確実に提供することという視点から見てみると、これは社会や人びとにではなく、

ということを意味していることがわかる。
だから、お客は喜ぶかどうかよりも、実は

どうか、というところで実はサービスを評価していることがわかる。

コンセプトを反映するというのは、完全に提供者の視点で、サービスは提供者がコンセプトやこだわり、想い、夢によって作られなければ成り立たないということを示してくれている。
それは、いわば職人のような

のことで、サービスを完璧にすることができるのは提供者しかいということである。

分解したものを集めてみると、サービスが成り立つ条件が見えてくる。
つまりそれは、

の全てを満たす、シンプルな条件である。

それでは、ひとつひとつの要素をもう少し詳しく見ていくことにしよう。

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04.サービスはこう思われている

サービスは多くの人に、当たり前のように勘違いされている。
勘違いは立場によって変わる。

私たちはお客としてサービスに触れるとき、サービスをイコール接客だと考える。
接客が良ければサービスがいいと考える。接客が悪ければ「あそこのサービスは悪い」と友人に言いふらす。

お客ではなく事業主であれば、サービスはお客に喜んでもらうことと考えて、たとえばオマケをつけたりする。
私の知人が家族とあるラーメン屋に入ったところ、ラーメンが不味くて不味くてしょうがなかったのに、店主は小皿を一品無料で提供して「どうだ、他ではこんなにいいサービスを受けることはできないだろう」という顔をしたという。
知人は言うまでもなく「そんなことはいいから美味いラーメンを食わせてくれ」と思った。
これがサービスの誤解の2つ目である。

マーケッターや学者などの専門家や、大きな事業の関係者は、サービスを無形の商品として扱う。
単純に扱うものが商品であるか、サービスであるかという考え方をする。

これらの考え方はどれも間違いではないものの、同時に自分の立場だけから見た、サービス像の一部でしかない。

もし接客がサービスなら、喜ぶことができさえすればサービスは良いということになってしまう。
けれども実際には、水道やガス、交通機関など普段なんとも思わないのに、とても重要なサービスが私たちの身近にはある。
こういったサービスは、正確に必要なものを届けてくれるという意味で良いサービスであるに違いない。
それに水道やガスのように、接客を必要としないサービスもあるのだから、接客が良ければサービスが良いということにはならない。

オマケという考え方は少し幼稚な気もするけれども、ホスピタリティや真心こそ真のサービスだと考えているコンサルタントや実務家は意外に多い。
しかし、相手に気配りや心配りを行き届かせることができ、親切に接することがイコールサービスが良いということなら、気分を良くすればサービスが良いということになってしまう。
けれども現実には、気分を意に介さないサービスだってある。
病気になって病院にいけば苦い薬を飲まなくてはいけないかもしれないし、痛い思いをしなければならないかもしれない。
天気予報が明日は雨だと伝えて気分が悪くなっても、天気予報の価値は何も変わらないはずである。

最後に、無形の商品がサービスだとするのなら、たとえば映画は無形の商品なのか有形の商品になるのか?
それとも映画は無形で、DVDは有形になるとしたら、レンタルのDVDは無形か有形なのかということがはっきりとしなくなってしまう。
どの場合であっても、同じ映画の内容を楽しむことができるということに変わりはない。

つまり、どの立場の見方でも、サービスは頭の中で都合よく解釈されているのであって、正しいサービスの姿を説明してくれているのではないということがわかる。

私たちは、

を考えるとき、まず最初にこういった

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03.ヴェネツィアの胴回り

ロンドン事件から8年後、2002年正月。

友人夫妻と訪れたイタリアのヴェネツィアで、私はロンドンの事件とは反対の経験をした。
起こった物事は全くの正反対でありながら

という意味では、実は同じ物事だった。

その滞在で私は、ヴェネツィアの老舗有名ホテルであるダニエリに泊まり、サービスに定評のあるハリーズ・バーで食事をした。
歴史的事件現場の確認という観光の目的がありながら、同時にサービスに定評のある各店舗を経験しようと決めていた。

そうした観光のほとんど済んだ最終日前日。
翌日からヴェネツィア共和国時代の海運の経由地点であり、城塞都市であるクロアチアのドゥブロブニク(ラグーザ)に3日滞在し、あとは帰国するだけというスケジュールが残っていた。

つまり、イタリア滞在はその日が事実上最終日であって、私は自分の好きなファッションブランドの、ジョルジオ・アルマーニの服を買いに出かけることにした。
ジョルジオ・アルマーニの店舗はどこでもそうだが、洗練されていて全体の空気、雰囲気がいい。
私は買い物を楽しむためにカジュアルなスーツに着替え、ホテルを出た。

店に入ると目の合った女性スタッフに唯一知っているイタリア語で挨拶を交わす。
まずメンズのマフラーを探していることを伝え、何本か用意してもらう。
説明は終始シンプルで、つかず離れずの距離感が上手いスタッフだった。
一本のカシミアのマフラーを選び、あとは自由に店内を回らせてほしいと伝えた。もちろん快諾される。

美術館を回るような、ゆっくりとした足取りで歩を進める。
それぞれの服を目で、肌で楽しみ、最後にスーツを見て回った。
この頃の私はスーツを着る仕事をしていなかったので、必要性の低さからスーツのコーナーを最後にしたのだった。
担当のスタッフは、まだ私を自由にしてくれていた。

各デザインにつき一着ずつ並ぶスーツの中に、ひときわ私の目を引く濃紺のダブル、ピンストライプのスーツを見つけた。
買う予定のないスーツを手に取ると質感がいい。
ラインも綺麗で着てみたい衝動に駆られた。
担当のスタッフを呼ぼうかと思ったそのとき、近くにいたスタッフが私のニーズを先取りしてキャッチしてくれる。
試着室に案内されスーツを着ている間に、そのスタッフは私の担当のスタッフを呼びに行った。

ジョルジオ・アルマーニのスーツはどれもそうだが、体が優しく包まれている居心地の良さがある。服を着ているという感覚ではなく、包まれているという感触。そのスーツは完璧だった。
いわゆる衝動買いをしようと思ったそのとき、上着のウエストがぴったりとフィットしないことに気がついた。 つまり、胴回りがキツかったのだ。

その後に起こったことが、ロンドンの事件とは真逆のことだった。
私がこのスーツを気に入ったことと、しかし胴回りがキツイことを伝えると、私の周囲を担当のスタッフ、仕立てのスタッフ、私がスーツを見ていたときに近くにいたスタッフの三名が囲い込む。
元々買うつもりのなかったスーツだからそれほど執着したわけではなかった。しかし彼らの一生懸命な姿を見て、成り行きに任せてみようという気持ちになった。

三人がイタリア語で何かを議論し合っているのを見ていると、言葉は分からないものの一生懸命さは伝わってくる。
もちろん、三人で売り込みをするなどというようなナンセンスなことはしない。
一通りの話し合いが終わると、「寸法を合わせて仕立て直すことは全く問題ない」と仕立てのスタッフが言った。
短髪で一見してセンスの高いゲイであるとわかる彼の説明も、とにかくシンプルで完璧だった。

そういうことなら仕立てをお願いしますと言うと、急がせますので仕上がりに四日くださいと応える。
上着の胴回りの縫製をし直すのだから、パンツの裾上げなども同時に行うことを考えると時間がかかるのはよく分かった。実際、東京・紀尾井町のジョルジオ・アルマーニでも同じ仕立てを依頼すると一週間はかかるだろう。

しかし残念なことに、私にはその時間がなかった。明日イタリアを発つことを伝え「残念ですね」と言うと、短髪の仕立てスタッフはすぐにまた他の二人と一生懸命議論を交わし、数分後胸のポケットから携帯電話を取り出してどこかに電話をかけた。

二分ほどの電話が終わると、私の方に向き直り、笑顔で「明日の出発までに仕上げますので安心してください」と約束する。
私はその鬼気迫る仕事ぶりに思わず笑ってしまった。

私にとっては買っても買わなくてもいいスーツに、これほど真剣に応対してくれたのだ。
もちろんいい気分になったし、翌日仕立ての約束も守られた。
ハイクオリティのサービスの素晴らしさを実感することもできた。しかし、同時に疑問が生まれた。

翌日のクロアチアに向かう飛行機の中だったかクロアチアに着いてからだったか、私はロンドンの時に目撃したあの事件と白髪のマネージャーの説明を思い出していた。
あのときのサービスの世界と、今回のサービスの世界では一体何が違うのか?どちらが、あるいは何が正しいのか?

今回の仕立ては4日かかるはずだった。
私の購入するスーツだけを仕立てるのであれば、プロの手にかかればプレスなどの工程を入れても2時間あれば余裕でできるだろう。
しかし4日必要だということは、私の前に列を作って並んでいる別のお客がいるということであり、その中にはおそらく急ぎの人もいたに違いない。
その列に割り込んでしまう私はお得であるし、現にスーツを手にして帰国することができたわけだが、サービスとしてそれは一体どうなのだろうか?という疑問が思い浮かんだ。

他のお客がこのことを知ったら、ジョルジオ・アルマーニに対するお客の信頼は崩れ去るのではないか。そういうことを考えずにはいられなかった。

最終的に、ロンドンの事件もヴェネツィアの対応も、根本のところでは同じ物事なのだ。

に答える出来事であり、実はどちらも正しいサービスだったのである。

その詳細はこの後に続くサービスの歴史や、他のトピックスのコラムで詳しく見ていくことにして、次は

の答えを先に見てしまおう。

 

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02.サービスの約束

「サービスは何をもって信頼されると思う?なぜ、信頼されると思う?お客様の機嫌を取って、いい気分になってもらうことで信頼されるわけじゃないよ。もしそうだとしたら、サービスは単なる御用聞きだということになってしまう。機嫌を取るのが上手いことが、サービスが良いということになってしまう。確かにお客様にはできる限りいい気分になっていただきたいし、それはその方がいいに決まっているじゃないか」

私はそうだなと思う気持ちと、そうかなと思う気持ちの両方を抱えながら首を小さく縦に振った。

「そう考えると、今日の接客は多少問題があったかもしれない。しかしね、彼(薄栗色の髪のスタッフ)はサービスの信頼は守ったよ。サービスにとって一番基礎になる信頼は『約束を守る』ということだよ。彼はこのデパートを代表して明日に必ず仕立てると約束した。その約束が破られたらどうだろう?そちらの方がサービスに対しては裏切りじゃないか?いくら愛想が良くても、遅れたことをお客様があまり気に留めなくても、約束したことを守ることのできないサービスはサービス失格。そういうサービスは、結局は誰からも信頼されないからね」

なるほど一理あると思った。同時に何か違う部分があるような気もした。

「サービスは誰に受けてもらうもの?」
突然質問されたことに少し戸惑ったが、簡単な質問だったので落ち着いて答える。
「それはもちろん、お客様です」
白髪のマネージャーは次の質問をした。

「お客様って誰?」
「それは・・・このお店で買い物をしてくださる全ての方・・・。いや、買い物をするかどうかはわからなくても、立ち寄ってくださる方もお客様です」

白髪のマネージャーは一度「うん」と言いながらうなずいて、私の認識の間違いをやんわりと否定し、足りない部分を補った。

「何かを買って下さったり、そうでなくてもこの敷地内に入って下さったりすることが私達のお客様だというのであれば、お金を払う人と払ってくれそうな人が、全てお客様だということになってしまう。それにお金を払うからお客様だと言うのであれば、それはサービスをご提供しているのではなくて商品とお金を交換しているだけじゃないかな。つまり商売の意味でのお客様であって、それはサービスの意味のお客様ではないんだよ。

サービスは約束を守ることが信頼を得るための一番の基礎だと言ったでしょ。何を約束するかはお店によって違うけども、その約束を守る姿を信じてくださる方の全てがサービスにとってはお客様なんだよ。だから何度も店には足を運んでくださるけれども一度も購買したことのない人や、最後に購買されてから三年が経ち、それ以降一度も来店されない方であっても、その人たちが私達の約束を信じてくださっていれば、そういう人全てがお客様だ。いつも店員を困らせる人がいたとしても、基本的に私達のサービスに信頼を持ってくださる方もお客様だ。

反対に、いくら大金を積まれても、私達のサービスを信頼してくれるのではなく、お金で自分の欲望を満たせばいいだけの人はお客様じゃない。それから、いくら愛想が良くて、スタッフと仲のいい人がいたとしても、私達の約束を信じてくれない人もお客様ではない。もちろんサービス業だって商売だから、購買の意思を示されればお売りはするけどね」

白髪のマネージャーは、どう俺、今格好いいこと言っただろ、という顔をした。
そういう茶目っ気のある年の取り方をしている人だった。
正直、なかなか格好良い人だった。

私はそのときにひとつだけ質問をした。
そのときはひとつしか質問が思い浮かばなかった。

「でも、約束って例えば何ですか。今日のことは仕立て日の約束でしたけど。他にどんなものがあるんですか」

マネージャーは、それは簡単だよと、少し自慢気な顔をした。

「例えばさ、君の仕事。免税の手続きするだろ。『あのお店に行けば必ず免税の手続きをしてくれる』ということが分かればお客様は安心できるだろ。それからこれ」
そう言いながら彼は商品として展示されているマフラーを手に取った。

「このアクアスキュータムのマフラー。イギリスのブランドだね。この店に来ればイギリスのブランドの商品、特に観光客のお土産として喜ばれるものがセレクトされて売っているということ。そういうことに観光客は安心できるし信頼してくれる。商品じゃなくてもいいよ。たとえば、このマフラーは18ポンドと決まっている。18ポンドのものは18ポンドでお買い求め頂く。1ペンスたりとも前後してはならない。当たり前のようだけどこれだって約束だよ。

それから、うちは寿司カウンターが併設されているでしょ。デパートだけど寿司を楽しむことができる環境を用意していますよというのも約束だよ。こういった約束は何も大きな声で宣言されているわけじゃないけど、確実に約束されてるんだよ。君だってメシ食いに行ってメニューの半分が品切れだったらげっそりするだろ」

マネージャーは、お客様のことになると言葉遣いが丁寧になり、スタッフの個人のことになるとフランクな話し方をする人だった。

「それと、イギリスにはイギリス人のルールがあるからね。うちもそうだけど、どのお店だって閉店時間になると一分たりとも長引かせずにキッパリ店を閉めるだろ。お客様も追い出して。これだって時間という約束を守る店であるということの表れだよ。これについて日本人の中には、サービスが悪いと言う人や、自分の都合の優先しすぎだと言う人もいるけどもね。本当はそうじゃないんだよ」

一通り言いたいことを言うと、白髪のマネージャーは次の話し相手になるターゲットを求めて去って行った。
彼はどんなことを言った後にも、念押しして「分かった?」などとは言わない人で、私はそこが好きでもあった。

結局このときの私は、その日に起こったことをどう判断していいのか分からなかった。
分かったことは、これまで抱えてきたサービスの常識に疑問符がついたことだった。そしてこの経験は、正しい質問を私の中に生み出してくれた。

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