07.サービスは顧客満足を不要にする

完全なサービスはお客に喜んでもらおうとしなくてもお客が喜んでくれる、というと大きな反発があるかもしれない。

その証拠にリッツ・カールトンなどのラグジュアリーホテルでは、お客に満足してもらうための心配りが優れているなどという具体的な反論も出るかもしれない。
しかしそれでも完全なサービスは、完全なマーケティングが販売促進を必要としないように、顧客満足を呼び起こす行為を必要としなくなる。

それは、

からである。

マーケティングによって明らかにされたお客の求めるものにしたがってサービスを作るのだから、それを利用するお客は利用すれば満足してくれるようになっている。

それはリッツ・カールトンのような高級志向のサービスでも同じことであり、接客者の心配りは個人の気持ちからだけではなく、サービスの決まりが具体的にそれを求めるように定めていて、指導している。
そういった方針がサービスの全体像の一部になっていて、はじめからその方針を取り入れたサービスを提供すると決め、約束している。

販売促進活動が疲れるように、顧客満足を追求する接客は疲れる。

もちろん、販売促進がうまくいったときに契約数が伸びたり売上が上がったりすると嬉しいように、接客によってお客から感謝されたり喜んでもらえるのは嬉しいに違いない。

しかし、ベテランで熟練した接客者の話に耳を傾けるとわかるが、彼らをして確実に喜んでくれるお客というのは全体の10%に満たない。
これは販売促進活動で集客をして、実際に商品を購入する人が10%に至らないのと同じ確率である。

つまり実際には、ベテランによるすばらしい接客でも、サービス全体の顧客満足にはほとんど影響を与えないということである。

マクドナルドはそういった意味でかなり完璧にサービスされている。

ハンバーガー(つまり肉)は若者を中心に好物であるし、バリューセットはお得感を感じさせてくれ、選ぶ面倒くささから解放してくれる。
店舗で食事をすることも持ち帰りにも対応しているし、なによりいつでもどこでも、マクドナルドに行けば安心して同じもの(知っているものは安心できる)を食べることができる。
マクドナルドが新メニューを開発すると生態系に影響があるといわれるほど、大量に約束している商品を品切れなくいつでも提供できるのは、サービスの信用があることの証明になっている。

私たちはそれを当たり前だと思っている。だから、普段はこういったことに気を止めたりはしない。
むしろ気にかかるのは、レジカウンターの店員の接客が良くないと感じることである。

しかし、私たち個人が想像できないほどの肉や野菜を、確実に手に入れ、品切れを起こさず、全国で同じメニュー(一部のメニューは世界共通)を提供するということは、マクドナルドは完璧にサービスされているということである。

マーケティングされたサービスを行うと、売上と顧客満足を追求しなくてもいい状態を持つことができる。
売上を上げるためにあくせくするのが販売促進、顧客満足を高めるために汗をかくのが接客努力である。
マーケティングされているサービスを作ると、あくせく売上を考えなくても買ってくれるようになり、サービスが約束されているので顧客満足に知恵を絞らなくても喜んでもらえるようになる。

次に、このマーケティングとサービスの関係を詳しく見ていくことにしよう。

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06.サービスと接客の根本的な違い

サービスと接客の違いは、マーケティングと販売促進の違いに似ている。
どちらも理論的な説明がなければ何が違うか見分けにくいというところも似ているし、仕事や業務が重複するところがあるということも似ている。

サービスは提供すると決めたものを提供する。
接客はサービスとお客の間を取り持つ。
サービスは提供すると決めたことの約束を守り、
接客は両者の間を取り持つ中立の立場で、ニーズを一致させる。
したがって、サービスは一方的であり
接客は双方向である。

サービスはたとえば、

である。

「漆(うるし)を塗った漆器のお椀が気に入らない。陶器のお椀を用意しろ」というお客の声には応えない。
返す言葉は「嫌なら他へ行け」である。

これは乱暴に聞こえるかもしれないが、実はそうではない。
普通に考えれば、漆器がほしければ漆器を提供するサービスへ、陶器がほしければ陶器を提供するサービスへ行けばいい。
職人が言っているのはそういうことである。
漆器を提供すると約束したサービスでは、漆器を一方的に提供する。

これに対して接客は、

である。

漆器の良さを知ってもらうニーズがお客にまだありそうなら、それを説明し、理解してもらった上で輪島塗を勧めてみる。
どうしても陶器でなくてはならないのなら別の情報を提供する。

そして返す言葉は、「漆器がダメなら陶器のお店へ行きましょう」である。
お客のニーズとサービスを合わせるよう双方向に力を働かせる。

サービスと接客は似ているところがある。
サービスは提供すると決めたものを必ず提供するが、接客ではお客に直接そのサービスを手渡す。

たとえば、レストランは食事を提供すると約束したサービスで、その食事は接客によって提供される。
であるのなら、やはり接客はサービスに限りなく近いのではないかという意見もあるかもしれない。
しかし実はそうではない。

たとえば鉄道では、電車によって移動を提供することがサービスである。
昔は、改札員という接客者が電車を利用するお客の切符を切る(チェックしサービスを利用してもらう)作業を行っていた。
しかし現在では自動改札機がこの仕事を行っている。
このケースのように、

サービスでは提供する手段として、接客が必要とされるときだけ接客に仕事が任される。

これを接客の側から見るとこのようになる。
「接客者としてサービスを求めるお客に対して、最高にすばらしく提供するためにはどのようにすればいいだろう」
接客はサービスとお客のニーズを一致させることが仕事だが、接客者の提供方法には個人差がある。
お客のニーズにも個人差があるので、提供方法や提供時の会話の内容などが変わることは当然だといえる。
接客はサービスとお客を結びつけるために、

つまり、

約束できないことまでを要求される接客は、約束することを行うサービスに含まれない。

サービスと接客は役割が異なれば、活動内容も異なる。
人の目に見て明らかな、一致する部分があるというだけである。

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05.良いサービスだと思われているすばらしい接客

「最近満足や感動したサービスを3つ思い出してください」

この質問をすると、ほとんど決まった傾向の答えが出る。
たとえば「どこどこの旅館で大変親切にしてもらった」や「有名レストランでドッキリ誕生日ケーキを振る舞ってくれた」など、必ず接客が関わる答えが出る。
そういった答えが出るように質問をアレンジしているので、結果は当然このような答えになる。

そして次に、「身近にある必要不可欠なサービスを3つ挙げてください」というと、これも当然ながら「水道光熱」「コンビニ」「交通機関」などの答えが返ってくる。

さて、どちらがサービスなのだろうか。

しかもどちらが良いサービスなのだろう。

今ここに、ある男の人がおばあちゃんに道を聞かれ、丁寧に教えただけでなく親切にも目的地までおばあちゃんの荷物を持って連れて行ったとする。
おばあちゃんを目的地に送り届けると、男は家に帰る。
そして自宅の玄関に鍵を差し込んだ瞬間、張り込んでいた警察に逮捕される。男は連続誘拐殺人犯だったのだ。
一方、用事を終えたおばあちゃんは家に帰り、夕食時、娘夫婦に今日どんなに親切な人がいたかということを滔々と話す。
若い者も捨てたもんじゃない、とまで言う。

さてここで考えてみてほしい。

男は親切な人だったのだろうか。それとも残虐な人だったのだろうか。
実はこの考え方が、サービスと接客を混同する理由と同じ考え方なのである。

男は人間として残虐であることは、連続誘拐殺人を行っていることから誰でもわかる。
つまり男は親切な人間ではない。
男は親切な人間なのではなく、親切な行為をした残虐な人間であるはずだ。

おばあちゃんはここを取り違えている。
自分に親切な行為をしてくれたので、男が人間として親切であると勘違い(早とちり)しているのだ。
あるいは、親切な行為をしてくれたのだから、イコール親切な人と決めてしまったのである。

これは、接客がすばらしく感動したので、サービスがいいと取り違えているのと全く同じメカニズムである。
親切な行為と残虐な人格が同じでないように、すばらしい接客と良いサービスも同じではない。

私たちは一個人としてサービスを利用するときに、わざわざ気分悪くサービス利用したいとは思わない。
できればいい気分でサービスを受けたい。

しかし同時に、実は気分が良いことよりも、サービスをちゃんと提供してくれることの方が重要だとも思っている。

どんなに愛想が良く、親切で丁寧な八百屋のおじさんが接客をしてくれても、八百屋に野菜が売っていなければ話にならない。
逆に多少無愛想で、お釣りを乱暴に手渡すようなおじさんであっても、品質の良いみずみずしい野菜を毎日そろえているのなら、私たちはその八百屋で野菜を買おうとするだろう。

つまり、私たちはサービスを通じて「喜ぶ」ということよりも、サービスを通じて

ことをより重視している。

最初に挙げた2つの質問を思い出してほしい。
「感動したサービス(実は接客)」「必要不可欠なサービス」のどちらが私たちにとってより重要だろうか。
その答えは紛れもなく「必要不可欠なサービス」であるはずである。

であるにもかかわらず、私たちはサービスの良し悪しを、自分がどれほど気分良くなったかで判断する。
サービス提供者が満足や感動を与えてくれたか、親切や気配りができたかどうか、などで「良いサービス」だと決定してしまう。

悪いことに、サービスを提供する側もそれが正しい「あるべき姿」だとしてお客の感情に応えようとする。
喜んでもらうように尽くそうとする。
このことが、良いサービスイコール良い気分を与えてくれるサービスという図式に拍車をかけている。

しかしちょっと考えてみれば、お客を喜ばせることは約束することができないということがわかる。

一方で、必要不可欠なサービスでは、たとえば八百屋は野菜を提供すると、はっきりと約束されている。
旅行社であれば旅行を提供するし、ホテルは宿泊、レストランは飲食を提供する。そして、良いサービスでは提供すると約束したものを確実に提供する。

日本の交通機関は世界中で最も時間を守るし、私たちが引越しをしたときに手続きさえちゃんと行っていれば電気が通らないとか、水が出ないということはまずない。

これは提供すると約束したことが守られているからである。

これに対して、「喜んでもらう」ことという顧客満足は、人によって基準が変わるので約束することはできない。
つまりその努力は、実はサービスの努力ではないのである。

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04.マーケティングは販売促進を不要にする

マーケティングは、はじめからお客に支持されるものを用意する。
しかもお客が買いやすいように工夫する。

販売促進ではお客の支持云々は関係なく、売るために工夫を凝らす。
そのためにお客に売りやすいように努力する。
お客の支持は売るために必要な時だけ考えられる。

つまり、マーケティングが成功していれば、売る努力を行わなくてもお客が買ってくれるので、販売促進活動は不要ということになる。

多くの人がマーケティングだと勘違いしている販売促進は、実際のところ疲れる。
体力を使う。知恵も使う。実験も行う。
それはそうだ。

私たちは個人の人間関係でも「私中心」「私の話を聞いてほしい」「私の話を聞けばメリットがある」と一方的に押し付けようとすると相手の反発を生み出す。
よく、人の話を聞かずに一方的に話す人がいる。
そういう人の話は周囲をうんざりさせる。
誰も心からその人のことを想おうとはしなくなる。

そこで頭のいい人は、自分中心を通しながら話を聞いてもらうために、一応先に相手の話を聞き、「どうやらコミュニケーションには相槌やうなずき、同意が必要らしい」などという知識とスキルを身につけようとする。

しかし、どんなに努力しても、時間を使っても、知識を身につけても、結局彼らの行っていることは人の話を聞くことではなく、自分の話を聞いてもらうことである。

これが、販売促進で行うことと同じ努力である。
販売促進は買ってもらうために何かを行うのではなく、結局は売るために何かを行う。
自分の話を聞いてもらうために必要な努力と同じ種類の努力が必要とされる。
だから本人も相手も、見ている人も疲れる。

なぜならその前提が、相手が心地よくなるために何かを行うのではなく、不快になることをうまくカバーするために何かを行うからだ。
だからエネルギーを使うし、疲れる。

しかし人は誰かとの付き合いが長くなると、その人が本心で自分のことを想って話してくれているのか、結局は自分中心に話しているのかということがなんとなくわかってくる。

たとえ話し方やコミュニケーションが上手くても、自分中心の人や自分の話ししかしない人から人は去っていく。
そうするとその自分中心の人は、ますます人が去っていかないように努力する必要に迫られる。

これを事業に置き換えると「顧客囲い込みのための努力」をしなければならなくなる。

お客離れを引き起こすと売上げに重大な問題が生じるので、自分たちの利益を守るためにお客を囲うようさらに努力しなければならなくなってしまう。
具体的にたとえば、二次販売を行うためにコミュニティを作り、お客を交流させることで喜んでもらう。
他のサービスではそのようなことを行っていないことをアピールして、他社に鞍替えしても結局損であるということを伝える。

この(販売)努力はたいしたものであると思うが、やっている方は非常に消耗する。
もともとがうまく行かない関係をうまく行かせようとするために努力するのだからやはり疲れてしまう。

はじめから相手のことを想い、相手が求めるものを満たしていればこのような努力は必要とされない。
そんなことをしなくてもお客は自然と支持してくれ、自然とコミュニティを作ってくれる。取り立てて他社の商品に移り変わろうなどとは思わなくなる。
お客が自主的にそう考えてくれる。

事業主はただお客を信頼して、自分たちのサービスの質を高めることに専念すれば良くなる。
サービスに専念し、質が高まればお客はますます支持してくれるようになる。
こうして好循環が生まれる。

これがつまり、マーケティングは販売促進を不要にするということである。

1940年代半ば以降のアメリカで、手軽にステーキ(のような肉)を食べたいという希望に応えて、ハンバーガーショップが急速に広まった。

マクドナルドはお客の声に耳を傾けて、「ファースト」フードの考え方を生み出した。車社会のニーズに応えてドライブスルーの店舗を展開したし、アメリカ中どこでも(後に世界中)同じ品質の同じものを食べることができる安心感に応えるためにチェーン展開した。
アメリカ国民が望むことにどんどん応えた。

マクドナルドはマーケティングを行った。最初から買ってもらえるものを用意し、最初から支持される形態(ファーストフード、ドライブスルー)を用意した。

もしあなたが、現在それほどお客の声に耳を傾けないまま商品を販売しているのなら、そして買ってもらえない(売れない)ために事業運営に苦労しているのなら、買ってもらえるサービス提供に変えたいとは思わないだろうか。

毎日戦場に出て明日の命を心配する戦闘から、最初から勝つと決まった戦争だけをする努力に変えることは誰にでもできる。

戦闘をとにかく勝ち抜き、それを評価されて将軍になる

は、自分を証明した気分になることができる。
苦労が報われた気になることができるし、実力の証明にもなる。
「自分は成功者なんだ」と自画自賛することができる。

しかし将軍になれる確率は、砂金を救って億万長者になれる確率ほど低い。
自分には必要とされる能力がないかもしれないし、同業他社が力を持っていれば勝つことはできない。

この北風モデルをやめて、最初から勝ちが約束された必要な戦いだけを行い、必要ではない戦いを避けて全体的にうまく運ぶ

を選ぶことはできる。

苦労や努力に裏打ちされた実力を褒めてもらえることはないかもしれないが、当たり前のことを当たり前に行って、それで旅人のコートを脱がすことができればそれがいいのではないだろうか。

そのために何を行えばいいのかということを順番に見ていこう。

ただし、太陽モデルの具体的なマーケティング方法を知る前に、サービスにまつわる誤解を詳しく知っておく必要がある。
なぜなら、マーケティングとサービスはミルフィーユの生地とクリームのように、切っても切り離せない補完関係にあるからだ。

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03.ウーロン茶と麦茶の違い?

マーケティングはお客が主体になる。
これに対して、販売促進は事業が主体である。
だからマーケティングは買ってもらい、
販売促進は売る。
具体的に何が違うのだろうか。

マーケティングはお客が買ってくれるように、買いやすいように働きかけをする。

そのためにはお客の声に耳を傾け、お客たちを見るということをしなければならない。
お客のことを知らなければ、お客が進んで買ってくれるように何かを作ることができないからだ。

お客のことを良く知ることができたら、彼らの求めるものを満たす。だから「買ってもらえる」。

販売促進は自分たちが売るのだから、自分たちの売り物をお客に届ける活動を行う。
知らない人に知ってもらい、ニーズを心の奥底から引き出し、保障を示し、メリットを説明して安心してもらう。
そのような行為が必要になるのは、元々が事業中心だからで、売りたいものを売らなければならなくなるからである。
だから「売る」。

両者は似ていて異なる。

烏龍茶と麦茶の製法が違うように、マーケティングと販売促進も行いの根本的なところが異なる。

マーケティングは

である。

石油を発掘しようと思ったら、候補地をよくよく検討し、いざ掘るとなる前に石油が埋まっているという根拠を固める。
だから時間がかかる。
明日の収益は発生しない反面、一度掘り当てると継続的に収益が発生する。

販売促進は

ことである。

砂金がどこに眠っているかは、それを掘り当てた人やその人に群がる人についていけば場所はわかる。
そして毎日砂を掬い、何百分の一か何千分の一の確率で金を手にすることができる。
毎日収益を上げることができる反面、毎日努力しなければ結果が出なくなってしまう。
砂金を掬う画期的な方法や効率的なやり方を発見しても、基本的に砂金を掬うということに変わりはない。

マーケティング活動と、販売促進活動は、似ているところがある。

たとえば、宣伝広告はどちらの活動でも行われる。
たとえば、ある自動車メーカーが新車を宣伝したとして、それがマーケティング活動なのか、販売促進活動なのかを判別することは難しい。
また、必ずどちらか一方の要素だけというわけでもない。

しかし、スタンスは私たちも見極めることができる。
新車の情報が、必要な人に届くように工夫されているのがマーケティング活動である。

少し専門的な話になるが、マーケティング重視の広告内容は、新車のベネフィットとセグメントがわかるように作られている。
「この新車はこういうことを望む人に向けていますよ」ということが示されている。
だから集まってきた人は最初から新車に興味があり、ほとんどの人が購入するということを前提にしている。

これに対して販売促進の宣伝広告は、とにかく多くの人に興味を引くように作られる。
「売る」ことを目的としているので、本来お客ではない人(ニーズのない人)であっても、興味によって引きつけまず集める(集客)。
そしてふるいにかけて集まった全体の中の数%に対して「売る」(販売)。
だから集まってきた人はなんとなく興味があり、購入するのは一部の人であるということを前提にしている。

それから、販売(促進)はマーケティング活動の一部だという意見もあるだろうと思う。
マーケティングの教科書にそういうことが書いてあるかもしれない。

価格設定や流通のしくみ、4P、ニーズやウォンツ、ブランド、セグメントなど、全て販売するためにあるのではないか、と。

しかしその考え方は正しくない。
これらは「買ってもらう」ために何を行うのかという方法である。
しかし実際には「売る」ことにも応用が利く。スキルとしては「買ってもらう」ためにも「売る」ためにも考え方を取り入れることができる。

たとえば「ニーズ」や「ウォンツ」は、マーケティングではお客の声を聞くことで明らかにする。
そして、求めるものに合ったものを用意し、求めやすいように工夫する。

販売促進ではこのニーズとウォンツを「売る」ために応用する。
つまり、ニーズとウォンツがあれば結果的に売れるのだから、人々からそのどちらか(あるいは両方)を引き出そうとする。
または、あたかもニーズがあるように説得する。
ここにも、マーケティングと販売促進の違いがある。

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02.マーケティングだと思われている販売促進

今ここに、グラスに入ったお茶がある。
お茶は茶色で、それをある人がウーロン茶だと言ったとする。
そこでまた別のある人が、ウーロン茶を飲んだことがあり、色を見てウーロン茶だと断言する。そして、ウーロン茶を飲んだことがない人に「飲んでみろ」と勧める。

はじめてウーロン茶を飲んだその人は、こんなに香ばしいお茶があったのかと驚き、また別の人に勧める。
そしてそのウーロン茶は多くの人に支持され、ウーロン茶のブームがやってくる。

しかし、実はそれは麦茶であったりする。根本的に間違っていたりする。
これと同じことがビジネスの世界で起こっている。

多くの人が、マーケティング活動だと信じて疑わずに、販売促進をせっせと行っている。
マーケティングは売ることだと信じ、そのために様々な工夫を凝らすことがマーケティング活動だと思っている。

たとえば興味を引く宣伝広告、小冊子やメールマガジンで無料提供する情報、SEOなどのことである。
しかし悲しいことに、そのほとんどは販売促進活動であってマーケティング活動ではない。

作戦を立ててあらかじめ全体的に勝つようにするマーケティングではなく、とりあえず目の前の戦闘に勝つために作戦を立てる販売促進を行っているにすぎない。
戦略ではなく戦術を使っているに過ぎない。

マーケティングを「売ること」や「販売」だと考えている人は、マーケッターを名乗る人にも多く見られる。
「集客」することだと考えているような人もいる。
そして彼らのほとんどは、それが実はマーケティングではなく販売促進活動であることに気がついていない。

マーケティングは、

として考える。いつでもどこでも、お客が中心で、お客の考え方が正しく、お客主体であることがマーケティングの基礎である。
これに対して販売促進は事業とビジネス中心である。

ここで良く考えてみてほしい。
「売る」ということはお客中心だろうか?

このような質問を投げかけると返ってくる、ある答えの傾向がある。販売促進をマーケティングだと信じて疑わない人たちは大体このような答えを返す。
「売ることによって、お客にメリットやベネフィットを提供している」
「その結果お客に喜んでもらうことができる」
「つまり、お客のために私たちは売ることを真剣に考えているのだ」
と。

これは後付けの理由である。
「自分が」売るため、稼ぐために後から考えられてつけられた、ついでの利点でしかない。
この答えを真剣に語る人たちは、別に深くお客のことを考えているわけではない。
少なくとも事業のことや売上げ・利益よりも優先しては考えていない。あるいは、事業のためにお客のことを考えているにすぎない。

「売る」という言葉が表す意味が、既に自分中心であることに気づいているだろうか。
自分たちのパワーを相手に向け、興味を引き、背中を押せるように筋道を作る。それが「売る」ということであると知ってほしいと思う。
これが販売促進の考え方である。

言葉を「売れる」に変えてもその内容は変わらないし、「販売」「集客」も同様に、事業を行っている者の欲求を満たす行動が、つまり販売促進である。

何のために販売促進を行うのかは人によって違うだろう。
社会貢献という大義を理由にする人もいるし、金持ちになりたいと言う人もいる。
しかしどんなに立派な理由があっても、それは自分が出発点であり、終着点であることに変わりはない。

私はそれを悪いことだと言っているのではない。マーケティングではなく、販売促進だと言っているのである。

マーケティング、つまりお客中心に事業を運営するのであれば「売る」ための活動は存在しない。
マーケティングでは

ために何を行うか、ということが活動の軸になる。

「なんだ、結局買ってもらうと言ったって、それは売ることと同じじゃないか。百歩譲って違うことだとしても、結果的にお客がお金を支払って企業から何かを手に入れるということは変わらないじゃないか」と思う人もいるかもしれない。

しかし実は「買ってもらう」と「売る」の間には、月とスッポンほどの差がある。

売ることと買ってもらうことを同じだとする考え方は、「ウーロン茶も麦茶も結局茶色なわけだし、どちらもお茶であり、のどを潤すし、美味しいと思われているから別にいいじゃないか」と言っているのとあまり変わらない。

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01.マーケティングされたサービス

事業でサービスを生み出すとき、必ずうまくいく方法があります。

それが、

を生み出すことで、マーケティングされたサービスというのは、サービスを作ってから販売促進活動を行うのではなく、マーケティングが完了してからサービスを作ることをいいます。

販売促進とマーケティングの勘違い、
接客とサービスの勘違いを見てから、
マーケティングとサービスが相乗効果を発揮するために必要な方法を明らかにしていきます。

前話:第1章18.商売で取り入れるサービス
次話:02. マーケティングだと思われている販売促進

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18.商売で取り入れるサービス

サービスと商売は、もともと持っているものが少し違う。

サービスが共生するのに対して、商売は競争する。
サービスが効用を基準にするのに対して、商売は価値を高めようとする。
サービスが提供者主体なら、商売はお客主体で、サービスが社会に対して働きかけるのに対して、商売は人に対して働きかける。

サービスを商売に取り入れるときに大切なのは、どの個性のサービスを取り入れれば、商売上うまくいくのかということにつきる。
どのような個性を持つサービスが商売に有利なのかであって、既に扱っているサービスを改善することではない。
実は

結婚生活がこの状態を上手く説明してくれる。

結婚する相手を誰にするかは、おそらく誰にとっても人生の重要な選択である。
相手が誰であるかによって、結婚生活が決まると言っても言い過ぎではないだろう。

ところが結婚した後になって、相手の性格や態度に疑問が生じることがある。
はっきりと不満を感じることだってある。

このようなときに、結婚した相手を変えようとすることで状態を良くしようとしても、なかなかうまくいかないことは、多くの人が経験上知っている。

この方法がうまくいかないのは、それが相手の個性を変えようとする行為だからである。
個性はその人の人生の結晶であって、変えられるものではない。

また、個性を変えるように求めるということは、その人の個性を否定しているということでもある。
相手を否定しながら、自分の思い通りに変えようとしてもうまく行くはずがない。

このような場合は相手を変えるのではなく、コミュニケーションや話し合い、スキンシップ、相手を尊重する態度などで、結婚生活を良くする自助努力、あるいは協力がより必要になる。
お互いを理解しようと努めるか、気にしないようにするしかない。

サービスの場合も、サービスそのものを変えようとするのではなく、商売上のマーケティングや販売促進、セールス、PRなどを駆使して、サービスと商売の関係を良くしなくてはならない。
改善するのはマーケティングと販売方法である。サービスではない。

それでも相性が合わずうまく行かない場合は、離婚をするしかない。
本当に自分に合う新しい相手を探した方が、その後の人生は良くなるに違いない。

商売でサービスがうまく働かなくなった場合は、サービスを改善しようとするのではなく、新しいサービスを取り入れるように働きかける。
改善するのではなく、そのサービスとは一度別れて、提供するサービスを見直す。

今のサービスを改善することができない(正確にはやってもうまくいかない)ように、サービスは

個性を改善することができないように、発展させることはできない。
よく「個性を伸ばす」という言い方があるけれども、実際には個性は伸ばすのではなく、それをうまく使うことのできる場所に当てはめる。
絵の才能があるなら、その才能を発揮してくれる師匠の下で学ぶだろうし、明るくて朗らかな性格なら、対人の仕事が向いているに違いない。

個性が輝く場所で活動すると、個性が生かされる。

サービスもこれと同じで、発展するのではなく、

である。
現在のサービスを、違うマーケットに向けて提供したり、サービスを分解して部分的に販売することで展開することができる。

だから企業が商売でサービスを取り入れるときは、自社のカラーやブランド、次のステップに向けてチャレンジすることなどをトータルで考えて、それを最も生かしてくれる個性を持ったサービスを選ぶ必要がある。

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17.安全は何よりも優先される

サービスは、「提供の約束を守る」ことが役割であるし、それがなければサービスは成り立たないけれども、サービスの提供よりも優先されることが実はひとつだけある。

それはサービスの責任でもある、

ということである。

たとえば八百屋は、残留農薬が人体に悪影響を与える野菜や果物を売ってはならないし、水泳のインストラクターは溺れる生徒を無視してレッスンを続けるわけにはいかない。

鉄道会社のサービスは、サービス提供という意味では人を目的地に送り届けることだけれども、サービス上の責任という意味では、人命を損なわないということにある。
責任に対するミスは絶対に許されない。

商売は元々ミスが許される。
損なわれるのは利益か信用だけで、損害は商売をする本人と関わりのある人間関係の中に収まる。
それに、試行錯誤をしてうまくいったものを残していく方法は、昔から多くの商人が行っていることでもある。

しかしサービスは責任に対してのミスが許されない。
影響は社会的損失や失われる人命となって表れる。
損害は、直接関わりのない一般の人びとに及び、広範囲に広がる危険性がある。

鉄道がダイヤの設計ミスをすると、多くの人命を奪う大事故につながる。
国営であるか私営であるかは、サービスの責任においては何の意味も持たない。

たとえばJR東日本では首都圏三十ヶ所に地震計を配備している。
地震が起こると共に独自に測定をし、地震計が基準値を超えると、その地震計と隣り合う地震計の範囲に及ぶ線路にゆがみがないか目視で確認作業を行う。

安全が確認されるまで列車の運行は止まり、ダイヤは大幅に乱れる。
しかしこの確認作業によって二次災害は避けることができる。
どのような場合も安全が最優先される。

または、飛行機が墜落する可能性は極めて低い。
飛行機の運航ほど安全性に力を入れるサービスは他にない。
航空会社の安全運行記録は100万回に0.5回のエラーという非常に安全性の高い数値をはじき出している。
(「ウェルチの戦略ノート」ロバート・スレーター著より抜粋)

サービスとは昔から、提供の責任を1%でもミスすると致命的な損害につながる可能性があるものだった。
たとえば、ローマ帝国が道路を敷く場所を間違えたとしたら、近隣の反乱に対して迅速に対応することができなかった。

そういったことが起こらないようにするための責任とサービスとは、常に対の関係にあった。

商売を通じてサービスが提供されるようになってからは、商売にもこのサービスの責任が組み込まれるようになった。

足並みは遅いという意見もあるけれども、企業は工業が促進されたことで発生した50年代の公害病などの問題、70年代の自動車排ガス規制、90年代のフロンガスの不使用などは、サービスの責任を企業が果たさなくてはならないことを明らかにした。そして企業はその責任に応えた。

エコやリサイクルが定着しつつあることも、商売がサービスの責任を取り入れたことを証明している。
確かに責任を完全に果たすまでの時間はかかる。
問題が生まれることも少なからずある。
しかし時間がかかっても責任は果たされ、義務は取り入れられている。

このサービスの責任は、いまや企業の責任として社会的に定着した。

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16.サービスは競争しない

サービスは収益目的で活動したことがなく、商売は収益性を目的に活動してきた。だからサービスには競争がなく、商売には競争はがある。

サービスははるか昔から競争するものではなく、そこに在るものだった。
社会のシステムそのものだった。

たとえば道路がひとつできると、それは単に以前より便利になったというだけのことだった。
その道路は他の道路と競争しなかった。どちらの方が、よりサービスが優れているかを競い合わなかった。

これに対して商売には、古代から競争が存在した。
世界最古の職業といわれる売春では、他の売春婦よりも美しさを心がけ、コミュニケーションを心がけた。
隊商は他の隊商よりも速く、多く、質の高いものを輸出し、輸入することを心がけた。
傭兵は強さと、結果としての勝利に集中した。

そうすることが商売上の利益に直結した。
サービスを良くしたのではなく、競争に(勝つこと)よって商売を円滑にし、利益を多く獲得したのだった。

そもそも売春婦の美しさ、隊商のスピード、傭兵の勝利などにサービスを提供するという考え方はない。
あるのは利益を得るという考え方だけである。
端的に言えば、儲けるということだった。
商売は現代においても競争は必然であり、目的は収益にある。

サービスと商売の違いを理解して活動を見てみると、特性的な違いがあることに気がつく。
それは「価値」を主体にすると競争が起こり、「効用」を主体にすると競争が起こらないということである。

サービスは競争によってより良くならなくてはならない、というのは大きな誤解である。

価値を競えば、仮にトップの座を維持していても競争を避けることはできない。
むしろ、競争があることで価値は磨かれ(商売は活性化し)、品質の向上やイノベーションにつながるともいえる。

一方で、効用が基準になると競争ではなく

が生まれる。
サービスにあるのは個性と違いであって競争ではない。
ひとつひとつの個性をありのままに認めたとき、上を目指すもの同士の競争ではなく、横のつながりを持つもの同士の「共生」が生まれる。

たとえば、同じ出発点と終着点を持つ道路、高速道路、鉄道は競争しない。共生する。
利用者がそれぞれ自分に合った効用によって、どれを使うかを決める。
高速道路を選んだからといって、高速道路が優れているとも、価値があるとも、競争に勝ったとも、顧客満足度が高いともいわない。
ましてサービスが良いとは決していわない。

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