蒸気機関の発明、木炭から石炭の利用、製鉄技術の促進の3つが、産業を農業から工業へと移らせた。
政治はこれを受けて、国力の増強に力を入れはじめた。
これがイギリスから興った、産業革命である。
しかし当時、サービスが変化したことに気がついた人はほとんどいなかった。
人々はもっと他の重要な物事、例えば蒸気機関と石炭による生産力の向上や工業の促進、原材料を輸入するための植民地の確保と維持に関心を持っていた。
仮にサービスの変化に気がついた人がいたとしても、その重要性は理解されていなかっただろう。
そもそも理解すること自体が困難だった。
この時代に、その重要性を感覚的にしろ理解していたごく少数の人々は、サービスを
ことに気がついた。
なぜなら、国策は重工業と植民地という大きな目標に向いていたので、足元の小さなサービスを満たすことに力を入れなかったからだ。
さらに、工業化が進むにつれて様々なアイディアとアイディアの利用方法が生まれ、道路や上下水道を整備する
こうしてサービス業の先駆けとなったものが生まれた。
それは商売を通じてサービスが提供されるというもので、産業の最前線を走る工業に直接関係するものではなかった。
これもサービスの変化が見逃される理由のひとつになった。
炭鉱、紡績業、製鉄業、重工業が産業として注目される中で、時代の変化と共に商売が提供するようになった最初のサービスは
である。
それまで基本的に公共機関によって整備されていたインフラが、企業の手によって整備されるようになった。
しかし公共サービスとは違って、その目的はインフラの整備ではなく、収益事業として利益を上げることだった。
オーストリアにはじめての鉄道が敷かれたとき、それを敷いたのは国ではなくロスチャイルド家だった。
本家のイギリスでは、リバプール・マンチェスター間に鉄道を敷いた世界初の鉄道会社が、年率9%以上の高配当を、毎年株主に払うことができるほど盛況し、各都市間、街と街に民間の鉄道会社が興った。
イギリス全土における一社あたりの平均鉄道距離は、24キロという短さであったというから、鉄道会社の乱立ぶりがわかる。
ヨーロッパの鉄道は、その誕生から商売を通じてサービスが提供された。
彼らの目的が収益であったにしろ、インフラの整備、移動とそれに伴うコストの削減、スピード化という社会システムを提供したという意味で、鉄道は完全に公共サービスと同じ意味を持っていた。
これが産業革命時に起こった、サービスのひとつ目の変化である。鉄道こそがサービスと商売が結びつくきっかけとなった事件だった。
サービスが商売を通じて提供されるようになったのは、多くの発明が社会に取り入られ、その応用が不可欠になったからである。
発明の応用を促進して国力を高め、社会を発展させるには、もはや国が政策だけでサービスを決め、提供するだけでは追いつかない状態になっていた。
民間の企業や個人が、収益性という事業の利益とサービスを結びつけることで、サービス提供を広める役を受けたのは必然だったと考えられる。
【余談:日本の鉄道】
ヨーロッパの鉄道のほとんどが民間によって敷設されて発展してきたのとは異なり、日本では国によって鉄道が整備された。
サービスの提供の最初から提供者が異なる理由は、資本力の差にある。
当時の国力は桁違いに違った。
日本では、国しか鉄道の資本を提供することができなかった。
当時のヨーロッパ列強と日本にどのくらいの資本力の差があるかというと、少し時代を経て1912年に処女航海で海底に沈んだタイタニック号の建造費は、同じ年の、日本の国家予算の約3倍に相当している。
船一隻を造ると、日本が3つでき上がる勘定になる。
それほど国力に差があった。
日本には、技術を輸入するコネクションのある企業も、資本のある企業もなかった。
それができるのは国だけで、事実国がそれを行った。
この意味で、日本の鉄道は最初から公共サービスだった。
その後、対ロシアを意識して軍備に組み込まれる。
古代ローマが軍備のために敷いた道路を民間も利用できるようにしたこととは逆に、また、ヨーロッパの鉄道開設と同様に、日本の鉄道は民間に解放する公共サービスからはじまった。
軍事利用が視野に入っていたにしても、新橋―横浜間の鉄道架設は実際に市民に開放されることからはじまった。
つまり、最初の提供者が企業であれ公共であれ、民間利用が目的であれ軍事目的であれ、鉄道は日本でも社会システムとしての公共サービスとしてはじまったことは間違いない。
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