ひとつ目は、
ということである。
たとえば、「お客様の笑顔を喜びにする」という決定はコンセプトにならない。
なぜなら、お客の笑顔も喜びもそれぞれの人によって生まれる状態が違い、かつ笑顔であることとサービスに相関性がないからである。
これがコンセプトとして通用するのであれば、サービスが劣悪であっても、接客者が仲良くなって笑顔になってもらえばいいということになってしまう。
「お客様のニーズに応える」というのもコンセプトにはならない。
コンセプトにならない理由はいくつかあるけれども、まずニーズに応えるというのはマーケティングの役割であってサービスの役割ではないこと。
ニーズに応えるということはサービスの姿を変えてしまう可能性があるということで、コンセプトを守って提供されるはずのサービスの特徴と矛盾していることなどが挙げられる。
サービスコンセプトはサービスを作り、作ったものを提供するために必要になるので、サービスを主体に作られる。
お客を主体にしてしまうと、サービスはあやふやでよくわからないものになる。
誰もが明らかに判断できないものや、人によって判断の基準が変わるものは、コンセプトとして成り立たない。
お客から支持もされない。
シャネルの「女性の解放」「黒・白・ベージュ」というコンセプトは、彼女の思い込みでありこだわりでしかない。
しかし、力強くわかりやすい。コンセプトをお客主体で決めてしまってはならない。
ふたつ目は、
ということである。
たとえば、ビル・ゲイツは「一家に一台のPCを」というサービス提供上のコンセプトを持っている。
これは商売上の目標や理念ではない。
サービスのコンセプトである。
「一家に一台のPCを」というコンセプトは、そうすれば売上げを上げることができるから掲げたのではなく、マーケットで有利だから掲げたのでもなく、自分自身が思うこと感じる理想を、事業を通じて達成する意思の表れとして掲げたものである。
その内容は、サービスを通じてどのように社会と関わり、貢献するかを謳っている。いわばそれは夢であるともいえる。
ウォルト・ディズニーもディズニーランドを夢の国だとしている。
夢の国であればお金を払ってくれるからそう言ったのではなく、提供するサービスのコンセプトとして夢の国であると宣言している。
文字通り夢を現実化している。
その結果、世界中のディズニーランド(ワールド)は同じコンセプトの元に同じようなルールで展開され、しかしそれぞれの国の特性に合ったコンセプトまで定めている。
売上げや上場の目標は、サービスのコンセプトにはならない。
事業収益は考慮に入れて構わない。むしろ考慮に入れなくてはならない。
しかしサービスのコンセプトと混同しないように気をつけたい。
みっつ目は、コンセプトは
というものである。
コンセプトはオリジナルでなくてはならない。
エスプレッソという濃くおいしいコーヒーを、もっと気軽に飲んでほしいというコンセプトがある。
そのコンセプトがサービス上も商売上も成功したからといって、やり方を真似してもコンセプトを取り入れることはできない。
日本人にもシアトル系コーヒーは受け入れられるようになった。
しかし、コンセプトごと日本に輸出した第一人者であるスターバックスの前に、追随する他の企業の印象は薄い。
彼らは自社のコンセプトを反映することによってではなく、シアトル系コーヒーの認知とマーケットを広げることによってのみ貢献している。
商売では、先駆者がリスクを犯して開拓した市場は魅力がある。
リスクを犯さずに同じような収益モデルを実行することができる。
強い個別コンセプトが追随企業にあれば、先駆者を追い抜くこともある。
ネットスケープに対するインターネットエクスプローラーのようなケースもある。
しかしコンセプトの真似は確実に失敗する。
誰かが心のそこからのこだわりを形にし、反映したその根本を真似することは誰にもできない。
真似をするということと、
ということは異なる。
シャネルは「女性の服の解放」をコンセプトにして卓越した。
卓越することを狙ってコンセプトを作ったわけではないにしろ、結果的にはそうなった。
私たちは後からこの様子を観察することによって、次のように学ぶことができる。
シャネルが卓越したのは「女性の服の解放」をコンセプトにしたからだ。
当時の社会では、女性の服は男性主導で作られていた。
それを解放し、コンセプトとしてサービスをはじめた。
ということは、私は薄くてまずいコーヒーが当たり前になっている社会に「濃いコーヒーによるまずいコーヒーの解放」を行うことで同じように強いコンセプトを作ることはできないだろうか?
この考え方は真似ではない。
考え方の取り入れであって、サービスコンセプトを決めるときには非常に参考になる。
真似と同様に、反発心でコンセプトを生みだすことはできない。
コンセプトは夢やこだわり、わがままから生まれる。
たとえば、ある運送会社は「物の配送と流通が郵便局中心で行われているのはおかしい」と奮起した。
そして自分が持つ流通手段を使って配送業をはじめることで、国と喧嘩をしてでも流通業への参入と自由化を求めて戦った。
しかし、この会社はそれ自体をコンセプトにはしなかった。
それは動機付けやビジョンの明示であって、コンセプトではない。
なぜなら戦いに勝利した時点でその理由が終わってしまうからである。
現にこの会社は、全国一律翌日配達やクール宅急便を一般化した。
はっきりとしたコンセプトは公にされていないが、結果を逆算して考えると「宅配」に関してコンセプトが一貫していることがわかる。
国と郵便局への反発がコンセプトになっているわけではない。
真似や反発ではコンセプトを生み出すことはできない。
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