ボランティアが個人の善意の範囲で活動するのではなく、体系的に大がかりに提供されるようになると、継続活動に必要な他の要素を取り入れることが必要になった。
多くのボランティアがなかなか継続せず、継続しても規模が大きくならず、規模が大きくなっても活動が失敗に終わることがあるのは、事業で必要とされる経済的要因と社会的要因が極端に弱いという理由がある。
ボランティア団体は通常、収益の確保とマーケティングが弱い傾向にある。
収益の確保については、ボランティアの目的が収益にはないということで弱いのは当然である。
しかし、継続的提供や発展を目指すのであれば資金を欠かすことはできない。
マーケティングに対しては、見方によっては商売よりも困難である。
「ブルックリン橋をただであげるよりも、売るほうが簡単だ」と言った人がいるように、金銭のやりとりが発生しない方が、物事をより難しくすることもある。
対象となるマーケットは貧しい者に限定され、提供は奉仕であって対価が発生しない。
これが収益の確保をより難しくする。
しかしボランティア活動を維持、継続させるためには、寄付や税金の優遇を超えて、発展に必要な経済条件を満たす必要がある。
特に日本では企業の寄付は望みが薄い。
ここでは経済上の問題を解決するための一手段を兼ねる、サービスの取入れを説明する。
ここにひとつの例がある。
カンボジア内戦の頃、大量の難民がタイの国境に流出した。
タイ側は赤十字と共同で国境から近い町に難民キャンプを設置し、食料の供給を行った。
生命の危険にある他国の人々に、ベッドと食事を提供した。
長い内戦が終結し、やっと国に帰ることが可能になったとき、多くのカンボジア難民は「国に帰りたくない」と言った。
なぜなら理不尽な虐殺に怯える必要はもうなくなったが、荒れた土地を一から耕し、生活を取り戻すためには苦労しなくてはならないからである。
しかし難民キャンプにいれば、何もしなくてもタダでベッドと食事が提供されるから、ということだった。
これが、サービスを取り入れないために起こったボランティア失敗のケースである。
ボランティアの目的は、「貧しい者」に「奉仕」を提供することにある。
貧しい者とは、金銭的な貧しさだけではなく、特に生命の維持や、多くの人が当たり前に手にしている食料やベッドを、不当な理由によって持つことができない人のことも指す。
生命の危機にある者、などと言い換えることもでる。
カンボジア難民はこの条件を満たしていて、赤十字とタイ政府もボランティアの条件を満たしていた。
実活動でも、ベッドと食事は適切に提供された。
しかしカンボジア人は、国に帰ることを拒否しボランティアを受け続けることを望んだ。
この結果を見てボランティアが成功したと考える人はいないだろう。
ボランティアの条件を満たしていながら、最終的な結果が失敗に終わったのは、サービスの社会性をその活動に組み込まなかったためである。
サービスの社会性は、社会システムとしての機能、社会貢献などとして表れる。
社会における役割と位置づけを明確にすることで各サービスは役割を果たす。
それは何を提供するのかによって貢献するということだけではなく、提供活動を行い続けた結果、どのように社会に役立っているのかというより大きな役割のことを指す。
ボランティアは対象が社会ではなく人にあるため、このような視点を見落としがちである。
目の前の貧しい者を救うという、コンセプトに沿って活動することはとても正しい。
しかし、その活動の結果は
はずである。
なぜなら奉仕し続けるということは、富と貧困の関係が解決されないことを意味するからである。
魚を釣る方法を教えるのではなく、魚を与え続けているだけでしかない。
社会に復帰し、社会を構築する一員として
がボランティアにはある。
でなければ、貧しい者を救うという大義名分の下の、ただの自己満足でしかなくなってしまう。
そのためにはボランティアのコンセプトとは別に、サービスのコンセプトとしての「私たちはどのように社会に貢献するのか」を決める必要がある。
ボランティアの活動では、サービスのコンセプトに向けてボランティアのコンセプトを反映する。
目の前の困っている人を助ける。
今自分にできることを精一杯行う。
自分が持っているものを無償で提供する。
このような考えはボランティアの精神としても実活動としても正しいが、組織として体系的にボランティアを提供する場合には十分でない。
奉仕の精神を貫くだけでは、社会的に活動することはできない。
サービスコンセプトを構築し、成果に組み込むようにしていく必要がある。
ボランティア活動にサービスのコンセプトを取り入れることができたら、ボランティア活動とは別にサービス活動を行う。
左手でボランティア活動を行い、右手でサービス活動を行う。
こうしたボランティアとサービスの両立は、発展し成功しているボランティア団体が必ず行っている方法である。
貧しい国の子供のスポンサーになり「月4500円でその子供と手紙を交わすことができ、手紙上のお父さんお母さんになることができる」というプログラムを提供するボランティア団体がある。
日本だけではなく世界中で成功しているこのボランティアは、もともとアメリカの宣教師が中国の少女の学費をまかなうという奉仕の精神ではじまった。
この奉仕の精神は「自分のできること、できる範囲でなるべく多くの外国の子供を学校に行かせてあげよう」という信念である。
この信念に基づいた活動が左手のボランティア活動となる。
しかしこの活動だけでは、ボランティアは広がりを見せない。
効果は現在とは比べ物にならないほど小さく限定されたはずである。
このボランティア団体では「貧しい子供を学校に送り出す」というボランティア活動と同時に、「月4500円でその子供と手紙を交わすことができ、手紙のお父さんお母さんになることができる」というサービスを提供した。
これが右手のサービス活動である。
どちらも提供者はボランティア団体でありながら、ボランティアの被提供者は貧しい子供であり、サービスの利用者は世界中の温かい心情を持った人々である。
つまりこのボランティア団体は、ボランティアとサービスの活動を別々に行っているということがわかる。
根底には貧しさを救う精神がありながら、そのボランティア精神とサービス運営はリンクしない。
ボランティアとサービスはそれぞれ独立して活動する。
奉仕の精神はその精神として独立して活動し、サービスは社会のしくみとして独自に機能する。
そしてこの、別々の役割と活動を結びつけることで両方を運営するのがボランティア団体の仕事、とりわけマネジメントの仕事になる。
この意味でボランティア団体は、よりマネジメントを必要とする。
ボランティア団体は左手で奉仕を実践し、右手でサービスを行い、両方をマッチさせることで活動を行っていくことが求められている。
サービス提供で得ることができた収益を、ボランティア活動と団体の運営に当てる。
利益をボランティアに還元する。
ボランティア団体が提供するサービスは、奉仕の意味だけを提供する場合と、商品に意味を還元する場合がある。
奉仕の意味を提供する場合というのは、手紙を交わすことで親になることができるというプログラムなどのことである。
サービス利用者は何かを購入することでボランティアにかかわるのではなく、より直接的にボランティアにかかわる。
自分も富める者として貧しい物にできることを行う、という意味を見出す。
サービス利用者に提供されるものは
である。
募金によって赤い羽根をもらう場合などがある。
一方、ホワイトバンドなどの商品を販売して収益を得ることでボランティア活動を行う団体もある。
サービス利用者は奉仕の意味を提供されるのではなく、
を提供される。
右手でサービスを提供し収益を得ることができたら、ボランティアに還元すると共に、ボランティア団体はマーケティングに費用を割り振るようにする。
ボランティア活動とその意味を知ってもらうことで活動を継続し、促進させる。
ユニセフがその予算の約半分をマーケティング活動に費やしていることを非難する良心的な人は多いけれども、その努力がボランティア団体と活動を支えていることに注目しなくてはならない。
良心だけで活動を継続することはできない。
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